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 男がナイフを手に、襲いかかってくる。蘭はとっさに、手にしていたおむつの袋を、男の顔面に投げつけた。軽い衝撃とはいえ、男にとっては予想外の反撃だったようだ。一瞬相手がひるんだ隙を見逃さず、蘭は思いきり男の股間を蹴飛ばした。 「うぐっ……」  男は思わず、ナイフを取り落とした。蘭はすかさず、それを足で押さえた。同時に、大声で叫ぶ。 「火事だー!」  マンション街とはいえ、民家もそこここにある。何軒かで、窓が開く気配がした。悠を車に連れ込もうとしていた男は、チッと舌打ちして悠を放した。 「失敗だ。逃げようぜ」  男たちは、大あわてで車に乗り込むと、走り去っていった。蘭は、素早くスマホでナンバーを撮影した。その上で、陽介に電話をかける。 『どうした?』 「悠がさらわれそうになった。車のナンバーは……」  蘭は、手短に状況を説明した。 『父の手先だろう。後は俺が処理するから、もう部屋からは出るな』  陽介は、簡潔に指示した。電話を切ると、悠がそっと寄ってきた。 「ありがとう……。怪我してない?」 「俺は平気。それより、早く帰ろう」  部屋へ帰ると、悠はぺこりと頭を下げた。 「蘭、ゴメンね。マンション内のコンビニ、卵が切れてて。つい、目と鼻の先だったからさ……」 「ああ。もうこれに懲りて、外にふらふら出るなよ。お前は、勲先生を敵に回してんだから」  蘭は、ため息をついた。 「うん、本当に怖かった……。でも蘭、ナイフ持った奴相手に、すごかったね?」 「一応、護身術習ってたからな」  荷物を顔面に投げつけ、相手が不意を突かれた隙に急所を蹴る、というのは基本的なやり方だ。襲われた際、火事だと叫ぶのもコツである。 「……あのさ、蘭」  しばらく沈黙した後、悠は言いづらそうに言った。 「大阪での夜のこと、説明させてくれないかな」

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