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 陽介と蘭がマンションに帰宅したのは、明け方近くなってからだった。海は伊代に預けたが、悠は寝ているはずだ。二人は、物音を立てないように部屋に入った。  だが、ダイニングに一歩足を踏み入れて、蘭は驚いた。食卓には、豪華な食事が用意されていたのだ。陽介と蘭、それぞれの好物が綺麗に盛り付けられている。傍には、メモが添えられていた。 『陽介先生、当選おめでとうございます。蘭もお疲れ! 僕はしばらく、新居で引っ越しの後片付けをしてます。今までお世話様でした。 悠』  陽介は約束どおり、悠のために新しいマンションを手配したのだ。とはいえ、引っ越しはまだ先だと思っていた。あわてて悠の使っていた部屋をのぞくと、もぬけの殻だった。 「相沢なりに、気を遣ったんだろうな」  メモを見ながら、陽介が言う。食べようかとうながされ、蘭は食卓に着いた。だが、今ひとつ箸が進まない。 「食欲、ないか?」  陽介が不安そうにする。 「うん……。そりゃお前が当選したのは嬉しいけど、党全体としては、ああいう結果になったわけだし」  歴史的な惨敗を喫した与党は、野党へと転落したのだ。今野前総理は、党代表を辞任する意向を、すでに表明している。すると陽介が、唐突に言った。 「蘭は、『傾国の美女』という言葉を知っているか?」 「国を傾けるほどの美人てことだろ。由来は中国だっけ?」  そうだ、と陽介はうなずいた。 「代表は楊貴妃だ。その美貌ゆえ、時の玄宗皇帝が政治を顧みなくなり、クーデター、そして後の唐の衰退を招いたと言われる。もっとも彼女自身は、特に野心を持っていたわけでもない、という説もあるがな」  蘭は、意外に思った。 「へえ。悪女のイメージだったけど」 「実はそうでもなかったらしい」  陽介はそこで、じっと蘭を見つめた。 「さしずめ蘭は、『傾国のオメガ』だな」

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