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 ――伊代さんは、もう帰ってこないじゃないか……。  さらに言いつのろうとした蘭だったが、背後からそっと肩に手を置かれた。陽介だった。 「そう思われるなら、今後この子を、大事にしてやってください。伊代さんの分まで」  陽介は、静かに言った。 「ああ」  勲が、神妙にうなずく。 「そして、これから産まれてくる子のことも」  一瞬怪訝そうな顔をした後、勲ははっとしたように蘭を見つめた。 「まさか……」 「はい。蘭は、俺の子を妊娠しています。あなたの孫ですよ」  勲が、大きく目を見開く。しばし蘭と陽介を見比べた後、彼は唐突に言った。 「陽介。お前が政界に入ると決めた時、私が言った台詞を覚えているか?」 「――はい?」  唐突な話題に、今度は陽介が、面食らった顔をする。勲は、ふっと笑った。 「『政治の世界は、食うか食われるかだ』」 「……」 「今回私は、完全にお前に食われたよ。負けを認めよう」  蘭と陽介は、思わず顔を見合わせた。勲は、さらに続けた。 「幹事長を辞任する」  蘭は息をのんだが、陽介は冷静に返した。 「それは、議員辞職も、ということですか」 「先走るな。そこまで落ちぶれたつもりはない」  勲は苦笑した。 「衆院選で、幹事長の責務を果たせなかったのは確かだからな。その点は、潔く責任を取ろうじゃないか」  あっさりそう告げると、勲はチラと腕時計を見た。 「話はそれだけだ。お前も議員二期目に突入するが、まあ用心することだな。どこに落とし穴があるか、わからんぞ」  言い終えるやいなや、勲は踵を返したが、陽介は呼び止めた。 「ご心配なく。……俺は、必ず首相の座に就きますから」  勲の歩みが、ふと止まる。

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