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”
玄関に現れた稲本は、酒を携えていた。
「陽介への、当選祝いだ。事務所で渡すと、記者と政治家が癒着してるみたいに見られるからな。だからここへ持ってきた」
彼は、相変わらず律儀なことを言った。
「わざわざありがとう。さっきまで陽介いたんだけど、タイミングが悪かったな。確かに、渡しておくから。……そうだ、よかったら上がっていけ」
蘭は、稲本をリビングに通すと、コーヒーを出した。稲本は、しばらく黙ってすすっていたが、やがて唐突に言った。
「市川。俺、『日暮新聞』を辞めるわ」
蘭は、あぜんとして稲本を見つめた。
「――それって、伊代さんのことと関係が?」
いや、と稲本はかぶりを振った。
「彼女は関係ない。社の方針に、つくづくうんざりしたからだ。未だに、社説はああだしな」
「確かにな」
『日暮新聞』は、勲のスキャンダルには一切触れずに、今野前総理や、今や野党となった前与党の擁護に徹したのである。蘭も、呆れていたところだった。
「辞めて、どうするんだ?」
「フリーになる」
稲本は、あっさり言った。
「陽介には、申し訳ないけどな。あいつからは、党の番記者にならないかって誘われてたんだ。推薦してやるからって」
「へえ、そんなこと言われてたんだ?」
初耳だった。稲本は、政治部記者としてはまだ二年目、新人の部類に入る。特定の政党の番記者になれるのは、大きなキャリアアップだ。それを蹴るのは惜しい気もするが、稲本が判断したことだ。蘭は、意見を差し控えることにした。
「フリーの道は、厳しいけどな。でも俺はほら、幸い気楽な独り身だから」
蘭は、返事に困った。稲本が、自嘲気味に言う。
「俺って、つくづく番に縁がないよなあ。ずっと番にしたかった奴は他の男のものになるし、その後番にした人には死なれるし……」
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