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講演会当日、蘭は意気揚々と出かけて行った。若く見える蘭は、十分学生で通用するだろうと思われる。妊娠中とはいえ、お腹もまだそれほど目立っていない。
『まー、お前が当選した時には、一緒にテレビに映ったから、知ってる人もいるかもだけど。何か聞かれても、適当にかわすからさ』
蘭は、開き直ったようにそう言ったのだった。
残された陽介は、育児書を片手に、指さしチェックした。
「おむつ、替えた。ミルク、飲ませた。おもちゃ、与えた」
海はといえば、ガラガラを振り回してはいるものの、リビングに敷いた布団の上で、機嫌良く寝ている。これなら安心か、と陽介は胸を撫で下ろした。
――そうだ。せっかくだから、育児以外の家事もするか。
今日は、蘭を息抜きさせる日なのだ。陽介は、全部屋をピカピカに掃除した。溜まっていた汚れ物も洗濯し、良い天気なので外に干す。蘭が放置していた、ハンカチやタオルの類にも、全てアイロンをかけた。
――後は、夕飯作りか。
いそいそとキッチンへ向かった陽介だったが、冷蔵庫を開けて顔をしかめた。中は、野菜ばかりだったのだ。料理下手な蘭は、友人・悠からもらったレシピに頼っているのだが、その多くは野菜料理なのである。従って白柳家の食卓は、連日野菜で占められるようになったのだった。
――肉が食べたいんだよな、俺は。
家事と育児に忙殺される蘭に文句は言いにくく、これまで黙っていたが、本音はそれだった。
――でも、今日は俺が料理当番。好きなだけ、肉を使うとするか。
陽介は、海の様子を窺った。相変わらず機嫌良く、ガラガラで遊んでいる。これなら大丈夫か、と陽介は頷いた。同じマンション内のコンビニなら、三分もあれば戻って来られる。陽介は財布を手に、部屋を出たのだった。
――何ということだろう。
三分後。リビング内を見回して、陽介は呆然としていた。
掃除機をかけたばかりの室内は、地獄絵図のごとく変貌していたのだ。ゴミ箱はひっくり返り、ゴミが散乱している。おもちゃ類は散らばり、アイロンをかけて畳んでおいたタオル類は、ぐちゃぐちゃにとぐろを巻いていた。その中心には、ケラケラと笑っている海の姿があった。
「海。お前、ハイハイができるようになったんだな。早いじゃないか。偉いぞ~」
陽介は、海を抱き上げると、明るく声をかけた。だがその内心は、号泣寸前だった。
――よりによって、今チャレンジしなくても……!
まるで、ゴミ屋敷のビフォア・アフターの逆バージョン、いやそんなことを言っている場合ではない。何とかして、蘭が帰宅するまでに片付けなくては。陽介は、背筋を引き締めた。この緊張度合い、裁判前日や国会質問前日の方が、遙かにマシである。
その時、スマホが震えた。海を布団に下ろして確認すれば、蘭からのメッセ―ジだった。
『講演会、満喫したぞ。で、参加学生たちと意気投合したから、これから学食でお茶してくる。遅くなって悪いな』
ほう、と陽介はため息をついていた。蘭が楽しんでくれたことにもだが、帰りが遅くなることにほっとしたのだ。
――その間に、部屋を綺麗にして、と……。ん?
返信しようとして、陽介はおやと思った。蘭から、写真が送られてきたのだ。学生たちに囲まれた蘭が、満面の笑顔でピースサインをしている。それは、いいとして……。
――こいつは何だ!
陽介は、目をつり上げた。一緒に写っている男子学生の一人が、蘭の肩に腕を回していたのだ。蘭に限って、間違いは無いのはわかっている。とはいえ、こんな親密そうな雰囲気を見せつけられるのは、面白くない。気にするまいと思っても、陽介の胸にはもやもやが湧き起こってきた。
――ちょっとだけ、様子を窺うだけだ。すぐに戻るから。 ここから大学までは、わずか二駅である。陽介は、再び海を抱き上げた。
「海、ちょっとお出かけしようか」
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