「兄上、独りでそんなところにいるもんじゃない」 　未だそこに佇み水面を見つめている夕栄に声をかけるが、彼は振り向くことさえしなかった。長く真っ直ぐな黒髪が風に揺れて、わずかに見えていた兄の横顔を隠してしまう。 「この時間はまだ会議のはず。栄鷲はどうしてここに？」 　少しの沈黙の後にようやく返された言葉がどこか叱責を含んでいることに気づいて、栄鷲は苛立ちのままにフンッとそっぽを向いた。 「あんな会議、やろうとやるまいと意味ないだろ。ただただ親父をよいしょするだけの場なんて、いるだけ無駄だ」 　会議に出ることのない夕栄は、栄鷲の短くも的確な言葉に深々とため息をついた。そして何かを憂うように空を見上げる。とても澄んだ青空だが、それさえもどこか皮肉気に見えた。 「栄鷲……、今日も人が倒れました。乳飲み子が死んでしまいました。あちこちで悲鳴が、泣き声が聞こえます」 　わずかに震えた声で言う夕栄に、栄鷲は知らずため息を零した。 　兄は優しく慈悲深い。こうしてよく憂いては我が事のように胸を痛めるのだ。だが、兄がそこまで想う必要があるのだろうか。栄鷲にはどうしても理解できない。 「人はいずれ死ぬ。そんなことを兄上が憂いたところで何も変わらない」 　何も、変わらない。 「栄鷲、それではいけない……」 　ようやく、夕栄が栄鷲を振り返る。黒く美しい瞳が、栄鷲をまっすぐに見つめた。 「飢えと渇きが蔓延しています。国民は何も知らないのです。ですが、今は学を授けている余裕はないでしょう。まずは水を、米を与えなければ。米が無理ならば麦でも良い。食べ方を間違えなければ芋でも十分にお腹を満たすことができる。享楽に使うだけならば税を減らして、民が自分たちのためにお金を使うようになればそれは巡り巡って、国全体が豊かになる。豊かになれば大人も十分にお腹を満たすことができる。そうなれば乳の出も良くなって乳飲み子が生きることができる。国内での生産がすぐには無理だというなら、他国と交渉して輸入をし、それを民に与えなければ」 　なぜ、そう夕栄は震える声で呟く。なぜ皇帝は、否、貴族たちも皆そのことに気づかない。なぜ己の腹が満たされればそれで良いと考える。その腹を満たしてくれているのは他でもない、汗水垂らして働いている国民だというのに。