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第1話

***  薄暗い光の中、伊山理央は重い瞼を動かそうとした。なかなか開かない。頭が重く痛む。そうだ、昨日は久しぶりに酒を口にしたのだった。そんなことを思い出しながら、ハッと慌てて自分の口元を撫でた。いつものマスクの感触にホッとする。 (ん……?酒?誰と?)  ぼんやりと自分の記憶を辿る。昨日はライブに出たはずだ。サポートを頼まれてやむなく、久々に人前に……。つきんと頭の端が痛んだ。なんとも重くぼんやりとした脳の痺れに加えて、ぐっと痛む感じ。ああ、そうだ、薬も飲まないと、と寝返りを打つと……視界が肌色に染まった。 「え……?」 「ん……」  目の前にあるのはなんだ?肌?夢?と理央はその肌色に触れる。ぺたり、ぺたり。……感触はあたたかい。胸がない。男。……そこまで気付いた瞬間に、理央は頭痛にもかまわず飛び起きて叫んだ。 「な、な、な、な、誰っ!?だれ!?」 「んあー?」 「どちら様っ!?」 「んー」  ボーっとしたまま、隣でもぞもぞ動いている金のサラっとした髪。誰!?誰だ!?という疑念しか出てこないまま視界を下に向ける。すると、自分も下着のみで、いや、何!?と思わずシーツを引っ張って体を隠すので精一杯だった。すると、シーツを剥ぎ取られた向こうの下着姿が露わになる。男、男だ。だれ、こいつ!?  理央の頭の中は混乱の極みであったが、シーツをひったくられた男は、えー何ーなにもうーーといいながらゴロンゴロンとベッドを動き、そして、むくりと起き上がった。その美しく長めの前髪がさらりと落ち、ん、と瞬く睫毛は音を立てそうなほど長く、何よりも……その美しく整った唇が、あー、と声を出した。低めの声が呆れたように響く。 「どちら様ってさあ、マジでひどくね?もうちょっと言い方あるじゃんー」 「っ……」  どういうこと!?と混乱したまま、理央は声も出せずにヘッドボードに背中をぶつけた。一瞬の痛みに呻いて、よくよく部屋の中を見ると、ここは自室ではない。無駄に広いベッド。薄っぺらいシーツ。なんだこの変な天蓋!?変な照明!鏡! (もしかしなくても、ら、ら、ラブホ……)  くわっと欠伸をしている男がゆっくりと理央に迫る。息をのむほどに美形だ。知ってる、この顔をどこかで、いや、昨日、そうだ、昨日、と理央は一生懸命に記憶を整理していた。しかし、それが答えを出す前に目の前の男がチュッと理央の頰に口付けた。 「昨日は楽しかったよ♡理央ちゃん♡」  その目を見た瞬間にびくりと震える。しまった、薬、薬……と思うが、向こうは別に気にもしていないようだ。自分の中の芯が冷える感じ。滅多にない感覚、いつもは薬で押さえ込んでいる衝動を感じ、相手に震える声で問いかける。これは、もしかしなくても……! 「おま、お前、Dom……っ」 「え?あ。うん」 「っ……」 「えっ、待って、理央ちゃん、subなの?昨日はそんな……」 「……っ、く、すり……っ」 「あっ……投薬してるのか!ご、ごめん……」  シーツを引っ張って顔を隠す。視線を伏せて、コマンドを使うなとだけ祈る。  理央は男性性の他にもう一つの性を持っている。それが「sub」という性だ。世の中には自分の外側に見える性とは別に内側の性を持つものが稀にいる。Dom/subという第二の性。Domは支配したい、独占したい、庇護したいといった、いわゆるSMのSにあたる特徴を持つ。subはその反対。つまりSMのMである。誰かに支配されたい、独占されたい、庇護されたい……そういった精神的なつながりで精神安定を保つ性である。理央はそのsub性を持つ特殊な人間であった。  これはすべての人に当てはまるわけではなく、また、性的な趣向としてのプレイとも違う。精神的に影響が出てしまうため、パートナーを探して定期的な関係を持つ、投薬で精神を安定させる、などが一般的な過ごし方だ。理央はそもそも人との関係が苦手であるため、自分のsub性に気づいた時からsub専用薬を服用している。つまり、そういう関係には慣れていない。  しかし、目の前の男がDomだとわかった以上、理央の警戒は一気にトップレベルに達した。彼にもし「何かを言われたら」抵抗できない可能性の方が高い。その恐怖に一気にゾッと寒気を感じた。薬、抑制剤、荷物、どこ……と不安で体が細かく震える。すると、男は理央の体を優しく抱きしめる。 「ごめん、何もしないから……【安心して】」  俺の方もコントロールできてなかった、と、彼はその優しい声で甘く囁いた。その声の響きに、自分の心の奥底が温かくなるのを感じ、理央は一気に自分の中の不安が消えていくのを感じた。ほわっとした温かな感情が自分の中に広がっていく。まるで温泉にでも入ったかのような心地よい浮遊感に理央は目を閉じて逸る呼吸を整えていった。 「……我慢できて偉かったね、理央ちゃん」 「っ……!」 「ごめん、契約ちゃんとしてないから、こういうアフターケアで平気?」  男は少し苦く笑い、うまくできたかな?と理央の顔を覗き込む。その目にハッと正気に返った理央は、思わずその肩をドンっと強く押した。 「うるさい!!け、契約もないのに、今、コマンド使ったな!?」 「あっ……でも優しい言葉だし……」 「そういう問題じゃあない!エチケットもマナーもなってねえな!」  性教育勉強し直してこい!と理央は思わず叫んだが、さっきの【安心して】という言葉に混乱を解消できたのは事実だ。そんなことに戸惑いつつも、なんとか相手のことを思い出そうとする。  お酒で頭痛いよね?大丈夫?ごめんね、あとでお水持ってくるね……甘い言葉に促されて気持ちが落ち着いていく……が、それも気に入らない。自分がまだ混乱中なのをいいことに、ベタベタとスキンシップをはかってくる相手にはまだ絶対的な信頼は置けない。しかし、さっきのコマンドのせいで体は安心しきっている……この精神と体のチクハグさ! (何なんだこいつは……!くそ……!)  けれど、その腕の感触にホッとしていているうちに記憶が戻ってきた。 (こいつは……そうだ、ともや……AVのボーカル、朋也だ!)  そうして、まだまだ鈍く痛む頭の隅を抑えつつ、理央は昨日のことを思い出し始めていた。

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