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第5話
アールは嫌な奴だった。お世辞にも性格が良い男とは云えなかった。傲慢で、自己中心的で、我が儘で、常に上から目線で、ちょっとでも虫の居所が悪ければ何の躊躇いもなく暴力に訴えるような性格破綻者だった。
なのに、不本意にもハル自身が誰よりも彼の魅力に逆らえないでいた。下心のない人間から見ても、アールは素敵だったと思う。彼は鼻筋の通った顔に、ブルートパーズの瞳とダークブロンドの髪が美しい外国人だった。彼ほどの外見の持ち主にハルはこれまで出会ったことがなく、この男から離れられない理由の一つに、その無視できない容姿の美しさがあった。
水曜の夜、彼の背中を追うハルには、すれ違う人々の視線がこの男に集中するのが手に取るように分かる。実際、アールがこれほど魅力的でなければ、語学教室の体験レッスンを受けたその日に入会書類にサインをしようとは自分も思わなかっただろう。
入会してひと月が経った頃、何度目かのレッスンを終えた水曜の夜のことだった。
その日、ハルの眼をきれいだとアールは云った。
ハルの眼は珍しい色をしている。褐色とオリーブ色が交じった大きめの双眸を、以前は長い前髪の下に隠していた。周囲の誰も、こんな色はしていない。みんな黒か焦茶の瞳で髪色も同様だ。自分が生まれた時、父が母の不義理を本気で疑ったというのは母自身から聞いた話だが、両親が離婚した遠因はひょっとするとそこにあるのかも知れない。両親どころか親戚にすら外国人の血は入っていないのだから、疑いたくなる父の気持ちも理解できる。母は自身の身の潔白の主張をしたいのか、『何でそんな色になっちゃったのかしらねえ』、『変な色よね』と、ことある毎に云っていた。
ハルは眼の色が原因でいじめられた経験などはないが、十代の頃はいつも自分の一部が異質に感じられていた。
そんなコンプレックスの塊とも云える眼を、もっと近くで見たいとアールは云った。
その瞬間、ハルの体内に電流が走った。
たった一言だ。
あの日の一言に、自分は今もこうして囚われている。
ハルがその男と再び会ったのは、翌週の水曜日のことだった。
午後七時前、レッスンを控えたハルは手持ち無沙汰に室内をうろうろしながら担当講師のアールを待っていた。その時、いつもより少し早く扉が開いた。
大西洋の上に輝く太陽のような男を待っていたのに、現れたのは夜の深淵から闇を纏ってやって来たような黒い瞳の男だった。
この部屋に、自分とアール以外の人間が入って来ることなど微塵も覚悟していなかったハルは、虚を衝かれて一瞬思考停止に陥った。
この男は以前、見たことがある。
二週間ほど前、ここの廊下で肩をぶつけた、あの若い男に違いなかった。
先に入室していたハルに対し、彼は目礼もそこそこに素早く室内を見渡し、奥の席へと向かった。彼が通り過ぎた後に、ほんのりとシトラスのような香りが残った。そこまできつくなく、香りを纏う本人の印象とはかけ離れた爽やかで明るい香りだ。
彼はハルと二席空けたところに腰を下ろすと、すぐにテキストやノートの準備を始めた。
ハルは少しの間相手の様子を盗み見ていたが、やって来たこの若者が自分を認識している気配はないと悟った。あの夜、彼が自分を見たのはほんの一瞬だった。ぶつかった後も振り返りもしなかったので、自分のことなど彼は憶えていないのかも知れない。
それはともかく、正直云って他の人間がこの時間にこの部屋に来たことについて、ハルは歓迎できない気持ちだった。
水曜のこの時間は自分一人のものだ。
既に一人でこの時間のレッスンを受講する期間が長く続いていたことが、ハルをそんな身勝手な思考に駆り立てていた。
去年から開講されたというオンラインレッスンを受講する生徒の割合が増えたためか、時間帯が遅くなればなるほど直に教室へやって来る生徒の数は減っていく。確かに時間や場所の自由が利くオンラインレッスンは、パソコンやインターネットの環境が整っていれば非常に便利なものだ。平日の日中や週末などは中高年層を中心に教室内は賑わっているらしいが、これから徐々に陽が落ちる時刻も早まり、寒さと忙しなさに追われる季節ともなれば、きっとこのフロア内は今より閑散としてくるに違いない。
それをハルは期待していた。
ここで毎回行われているのはレッスンだけではない。一見、健全なこの部屋でささやかだが甘く濃密な前戯の時間を自分とアールはいつも過ごしている。
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