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第6話
監視カメラのあるレッスン室で、テキストを開いた手にさりげなく触れたり、テーブルの下で靴を脱いだ足を絡ませてきたりといった行為に及ぶのは、スリルがあって楽しい。仕掛けてくるのはいつもアールだ。ハルにはひたすら待つことと、彼の動きに応えることしか許されない。そして例外なく毎回それを心待ちにしている。
監視カメラを通せば一見、純粋な向学心と堅実で爽やかな教育が交叉しているようだが、実際の現場は学習意欲とは全く別の熱情に駆られた男と、講師としての品性を著しく欠いた男との性愛の匂いに溢れている。基本的にアールは冷たい男だが、相手を焦らすのは好きなので、ここでの無言の交流については割と愉しんでいる様子だった。
そのため、たった今入室して来た若者を邪魔に思う気持ちがハルにはあった。道理で考えれば、個人レッスンのコースをとっているわけではないのだから、こういうことも当然ある。しかし常識とか理性の声というのは、何故こうも弱いのか。ハルの本能は、自分の領域に侵入者が現れたと、絶えず警告し続けていた。
「こんばんは」
そんな中入室して来たアールは、普段とは違った明るい英語の挨拶でハルをたじろがせた。一瞬、別の講師が入って来てしまったのかと思ったほどだった。
「今日のメンバーは私とハルさんとスーズさん。この三人です。スーズさんは今日が初めてのレッスンですよね。一緒に楽しみましょう」
そう英語で云うと眼も眩むような輝きを放つ笑顔を向けてきた。とびきり外面がいいのがこの男の特徴、というか武器なのだ。
どうやら二つ向こうの席に坐っている若い男の名前はスーズというらしい。
ハルはさり気なく彼の方を見たが、アールの武器がこの若者に効いたかどうか、見ただけでは判断できなかった。
テキストのページを指示する合間にアールはハルを一瞥した。いつもの視姦するような熱っぽさは欠片もなく、単にそこにいる生徒を見たというだけの感情のなさが窺えた。
レッスンが始まり、はっきり云って面白くない気持ちでハルはテキストを開いた。
最初にアールからの質問を受けたのはハルだった。テキストに沿ってそつなく解答する。
ハルは中学卒業まで、英語教育に重きを置いたエスカレーター式の私立校に通っていた。英語教育に熱心だった両親に、翻訳字幕のないDVDやアルファベットパズルなどの教材を惜しみなく与えられ、二歳からインターナショナルプリスクールや英語保育園にかけ持ちで通わされていた。近所の子供達とは一度も遊んだことはない。物心ついた時から、いつも忙しなさとプレッシャーを感じながら日々を送っていた。
そんなわけである程度の英語は霜起こしのようなものだが、ハルはあまり発音が良くない。咄嗟の会話にもうまく反応できない。相手の質問が予測できないと混乱してしまう。リスニングはできても、細かい文法が気になって反応が遅れる。表現の粗細にも波がある。
自然な会話ができるようになったら、今よりも給料のいい仕事に就きたい。そしていずれ、海外に行きたい。できればそこで何か職を見つけたい。それがハルの語学教室に通い始めた当初の目的だった。
アールはハルにしたのと全く同じ質問をスーズにもした。
ハルはお手並み拝見というような、少々意地の悪い気持ちで若い侵入者を睥睨し続けた。
一時間後、語学教室内のフロア内にある自販機の前にハルは立っていた。
炭酸。とにかく炭酸なら何でもいい。本当は酒が呑みたい気分だが、あと一時間分のレッスンを控えている。落ちてきたペットボトルを拾い上げ、慌ただしく開栓して口をつける。
何だ、あの男。
手の甲で口を拭いながらハルはそう思った。
スーズは普通の大学生とは違う。
大学生だと彼が自己紹介したわけではないが、年齢や雰囲気から云って恐らく間違いない。
彼は明らかにどこかで英語を喋ってきている。習った、というより、実践的に遣ってきている。
スーズの発音はハルのそれとは明らかに違った。彼の応答は中学校で習うような単語ばかりだったが、発音の良さは並ではない。思わずハルは見入ったほどだ。そして彼は会話に瞬発力がある。何より彼はハルの型をなぞったような会話とは違い、自分の言葉で喋っていた。
アールもスーズが喋り始めた時は少し驚いていた。だが特にその優れた発音には触れず、代わりに彼に対する質問を続けざまに行った。何かを確かめるような感があった。
アールからの質問に対し、スーズは実に単純な英語で即答した。一応テキストに即した質問だったのにも関わらず、彼は今そこに書かれた文法を完全に無視してただ答えた。
その返答は単純すぎて、意味は成していたものの大人の英語とは云い難かった。
だがこの学生の気を張っていない自然な会話にアールは少なからず興味を引かれたようだ。初回のレッスンでは大抵みんな、テキスト通りに喋ろうと苦心して一言も出なくなることが多い。スーズのように初めから臆することなく会話ができる生徒は珍しかった。しかも、あんなに若いのに。
「ハルさん」
振り返ると受付スタッフの女性が少し離れたところに佇んでいた。咄嗟にハルは、営業用の人当たりの良い笑みを口許に浮かべた。
「はい?」
「すみません。レッスンポイントの件でお話が。少し宜しいですか?」
「ええ、どうぞ」
「あの、四月にご入会頂いてから半年ほどなんですが、ちょっとポイントの消化具合が気になりまして・・・今、週に二時間の割合で通われてますよね?」
この語学教室では年間の授業料を一括で支払うことになっている。入金した授業料はポイントという形に変換され、レッスンを受ける度に消費されていくシステムだ。
ハルはこの女性スタッフが何を云いに来たのかおおよその察しがついた。
「この調子だとまずいですかね」
「申し訳ありません。教室の決まりでご購入頂いたポイントは一年で失効してしまうことになっているので・・・このままのペースですと計算上使いきれないですね。ちょっとそれだともったいないかなと思いまして」
「そうですか。わざわざすみません。自分で確認しなきゃいけないことなのに」
「いいえ、こういったことは皆さんにお声をかけさせて頂いてますから」
チークで桃色に染めた頬と、ラメの入ったピンクのアイシャドーが、彼女の愛らしさを際立たせていた。全体的にきらきら、つやつやしていて、何となく丸みを帯びた柔らかい雰囲気を醸し出している。彼女は自分に似合うメイクをよく分かっている。
彼女の同僚に、いつも受付の奥で事務をしている背の高い女性がいるが、彼女が全く同じ化粧をしたらきっと違和感があるだろう。その女性はほとんど何もしていないように見えるのに、どこかきちんとした印象のメイクをしている。だがその方がテクニックとしてはずっと難しいらしい。セックスと同じだ。自然体に見せるのが何より難しい。
「週末なんかはいかがですか?お休みの日にレッスン、って少し気が重いかも知れませんが、あらかじめ予約を入れてしまえば案外足が向くものですよ」
そう云った後で彼女はもう一段階上の笑顔を向けてきた。
「きっと彼女さんとのデートとかもあったりして、お忙しいとは思うんですけど」
気遣っているようだが、暗に彼女は探りを入れてきている。この年齢になればそういう気配は早々に察することができた。悪い気はしない。親切で愛嬌のある女性だった。仕事熱心でもあるようだ。けれど、今は間が悪い。
ハルは声を出して笑い、彼女の言葉にはっきりとした言葉を返さなかった。恋人の存在を肯定していると思われても仕方ない。
一体誰が理解してくれるだろう。歳下の可愛らしい女性をあしらって、いつか自分を置いて国に帰ってしまうような、性格も性癖も最悪な男の元へ週に一度熱心に通う愚かさを。
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