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第8話
この僅かな動作がハルの心に漣を起こした。スーズの方でもアールに対し、ある程度の親しみを抱いていることがそれだけで感じ取れた。一体いつの間に。今の仕草だけで親密度は計れないものの、明らかに前回までと彼等の関係性は違っている。
「ハルさん、テキストの七十五ページですよ。集中して下さい」
アールに講師用の厳しい声で呼びかけられ、ハルは我に返った。
実はスーズがこの時間のレッスンに参加するようになってから、アールの態度が回を追う毎に変化し始めていた。何でも基本的にハルを最初に指名し、質問を投げかけてくる。しかもイエス・ノーで答えられる簡単な質問が大幅に減り、リスニングの際もかなり集中しないと聞き取れない速さで彼は話すようになった。単語一つとっても、彼はメジャーでない方の表現をあえて選び、まるで何でもない風に婉曲的な表現や枕詞をさらりと遣うこともあった。ノートの上で文字にしてみれば、ハルも何とか理解までこぎつけることはできるのだが、アールは会話の中で即対応することを求めている。神経を使うレッスンが続いた。もう少しゆっくり喋ってくれと頼んでみても、毎回彼の失笑と冷たい目線に晒される。口許が笑っているだけに余計に眼の冷淡さが際立って見える。
自分が口ごもっている最中に、隣に坐っているスーズが何やら調べたり書いたりしているのを、ハルが眼の端で捉えていた。そのため彼は自分の番がまわってくる頃には、おおよそ無難な答えを導き出していた。これではとても平等とは云えない。アールが回を追う毎に、友好的な声色でスーズに話し始めたこともハルは気になっていた。
その日の休憩時間、アールはスーズを誘い、一緒に自販機に飲み物を買いに出て行った。二人が扉をきちんと閉めて行かなかったので、一人取り残されたハルは完全に不貞腐れて、いっそ大袈裟な音を立てて扉を閉めてやろうかとレバーを掴んだ。
その際、廊下の先でスーズの肩に触れながら彼の耳許に何か囁いているアールの姿が眼に入った。何か面白い話でもしているのか、二人でくすくす笑っている。単なる講師と生徒というのはおろか、友人同士といっても近すぎるその距離感に、ハルの心は大きくざわついた。
「あの学生が気に入ったの?」
その日の夜、アールの部屋で酒とつまみの準備をしながらハルは何気ない口調で訊ねた。
「何の話だ?」
アールは分かりきったことを訊き返してくる。
「スーズのことだよ」
ハルの言葉を聞くとアールはキッチンカウンターの向こうでふっと笑みを零した。顔を上げずにスコッチを準備している。
「気になるか?」
「ちょっとね」
「あいつとは気が合いそうなんだ」
その思わせぶりな短い台詞がハルの不安を煽るとこの男は分かっている。だからなのか、あえてそれ以上のことを自分から話そうとはしなかった。
「ちょっと若すぎると思うけど。お前といくつ離れてる?八歳?十歳?」
「再来月、二十一になるそうだ」
信じられなかった。この男の守備範囲が広いのは知っていたが、自分より一回り以上も離れた若者を引っかけるなんて、犯罪に近い。
これまでハルは一度たりともアールの交友関係について何か訊き出そうとしたことはない。自分はそんなことを口にしていい立場ではないと自覚していた。自分のような相手がこの男の周りに何人かいるのは随分早い段階から気づいていた。ただ、姿の見えないセックスフレンド達のことは無視できても、スーズのことは無視できなかった。
「あいつ、若いくせに愛想がないよ。英語は、少しできるかも知れないけど」
「あの歳なら何してたって可愛い。それに面白い。若いくせに一筋縄ではいかないところがある」
アールはそう答えると、飲み物を片手にハルの傍へやって来た。
「お前みたいに、何でも云うことを聞くだけじゃつまらない」
「何それ、俺がしてることは全部無駄?」
アールはものすごくうんざりするといった様子で溜息を吐いた。
「なあ、あいつと教室の外で会ったのか?」
「莫迦な女みたいに騒ぐな。疲れる奴だな」
ハルは口を噤んだ後もアールを見つめていたが、既にアールの意識は他へ移っていた。携帯電話の画面を操作しながら寝台に坐り、スコッチのグラスをローテーブルの上へ置いた。しばらくそうやってハルを無視し続けていた。
やがて立ち尽くすハルを一瞥すると、素っ気ない態度で足を組んだ。
「そこで木偶の坊みたいに突っ立ってるんだったら、足でも揉めよ」
その言葉に最初、ハルは素直に従う気にはなれなかった。だが携帯電話から顔を上げたアールと再度眼が合った途端、神経が萎縮した感覚に襲われ体が自然に動いた。
アールの足許へ跪いて踵を持ち上げる。彼へのマッサージはいつも足からと決まっている。
力加減に注意しながら、ハルは少しの間アールの蹠に指圧を施していた。
「・・・あの、再来週の水曜だけどさ、レッスンの予約をキャンセルしてある。ここにも来れない。出張が入っちゃって」
アールの返事はない。多分、聞こえていない。
「地方に新しい営業所ができることになって、その手伝いで木曜日から出張先で仕事なんだ。でも前乗りしなきゃだから」
次第に声を発するのが空しくなってきた。
「・・・あのさ」
「煙草」
ハルには眼もくれず、アールはそう指示してきた。仕方なくハルはローテーブルの上にあった煙草を手に取り、一本引き抜いて手渡した。すかさず火を点けてやる。その間、アールの足はハルの太腿の上にあった。これが自分達の関係をそのまま表している。
ハルはスーズが妬ましかった。今日、教室で見かけた時、あんな風にもう一度この男に親しみを込めた眼で見てもらいたい。どうして、自分達の関係は今のようになってしまったのだろう。自分が悪かったのだ。最初の段階で間違えた。あの若い学生と同じ立場に戻れたら、きっとこの関係も変えることができるのに。いつも自分はこういう扱いから逃れられない。
ハルはこれまで一度も自分に満足したことがない。いつも自分以外の何かになりたかった。いつも、こんな自分が嫌いだった。
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