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第9話
仕事中、ハルは何気なくクライアントとなる親子の関係性を観察してしまう。
木曜日、金曜日と出張先で新営業所の開所作業を手伝っていたハルは、土曜の今日、その営業所近くの大型ショッピングモールのエスカレーター脇で教材のプロモーションを行っていた。週末の人出を見込んでのPRなので、当然休日勤務を余儀なくされている。
見本の教材を子供達に触らせているので、テーブル周りの整理整頓は不可欠だ。感染症対策のために消毒作業も頻繁に行う。
ハルは子供が好きだ。
子供を苛む、あらゆる危険なものがこの世から消滅すればいいのにといつも思う。そしてその母親達にとっても、同様に優しい世の中になればいいと常々思っている。計算のない子供の笑顔には、神々しささえ感じる。その笑顔のためならたとえ、町中でベビーカーに足を踏まれても、電車の中で背中に涎をつけられても腹は立たない。
ハル自身は、自分の両親のことがちっとも好きになれない。父親は元々子供に関心が薄かったし、母親には文句ばかり云われて育ってきた。自分を認めてもらえずに育ったからかも知れない。子供の痛みに敏感なのは。
「資料を渡すための手提げ、もう少し出してくれる?」
客が立ち去ったばかりのテーブルを拭きながら、ハルは少し離れたところにいる後輩に声をかけた。だが彼は行き交う客にチラシを配布する作業に紛れて、聞こえないふりをしている。
「ユニ」
名前を呼びかけると、たまたま周辺に人気(ひとけ)がなくなったのをいいことに、彼は面倒臭そうに溜息を吐いて反抗的な視線をハルに向けた。まだ手にしていたチラシの束を雑にテーブルの端に置くと、ブースの端に寄せてあった段ボールの中から指示された内容の箱を探し出し、ハルの足許へ音を立てて置いた。
「開けろよな」
ビニールテープの封がしたままだったので、ハルは自分の懐を探ってカッターを取り出そうとした。だが見当たらない。仕方なく、爪でビニールテープを剥がそうとする。
じり、という音がして振り返ると、ユニが刃を出した状態のカッターを手にし、すぐ後ろに佇んでいた。ハルが普段使用しているのは刃の幅が一センチにも満たない細いタイプのカッターだが、今ユニが手にしているのは文房具というより工具といった方が相応しそうなサイズの代物だった。ユニは五センチ近く出した刃をそのままに、やや勢いをつけてそれを差し出してきた。寸前で手首を捻り、手持ち部分をハルに向けてくる。
「どうぞ」
脅すような仕草をとられたことが恨めしく、ハルは相手の眼を睨み据え、無言で差し出されたものを受け取った。
「そういう態度、こういう場所ではやめろ」
「あんたこそ、もうちょっと押しってものがないと売れるものも売れないんですけど」
入社二年目のユニは何かとハルに突っかかってくる。
二年目と云っても彼は転職組で、年齢はハルの三つ下だ。ハルの会社の採用の割合としては少ない理系の大学の出身者と聞いて初めはどうかと思ったが、人当たりが良く営業のセンスは抜群だった。こういう場での新規顧客獲得数ならハルよりも多い。
うっすらと赤茶色に染まった髪は厳密に云うと社則違反だが、色素の薄い琥珀色の瞳が相まって彼の魅力となっていた。髪色に関しては、上司に取り入るのが巧いこの男の素行を同じ課の大半の人間が故意に見過ごしている。ハルより若干背が高く、声はハスキーで動作や雰囲気に安定感のある男だったが、顔はどちらかといえばベビーフェイス寄りだった。これがクライアントを始め、あらゆる相手がこの男に対し油断する素因の一つなのだ。
自分の魅力を知った上で、若い母親狙いで営業を仕掛けているのかと思いきや、子供への対応もきちんとできている。小さな子供がしでかすアクシデントやトラブルにいちいち動じない。そして眼のつけどころもなかなかいい。夏には彼の提案で、子供向けの乳酸菌飲料を販売している会社と提携し、配布用の資料にパックの飲料をつけたところ、受け取ってくれる人の割合は格段に増え、その後の問い合わせも多かった。
ただ、洞察力が鋭い上に機転が利くのはいいのだが、それ故他人の能力の程度を見極めるのが残酷なほど早く、残念なことにハルは軽んじられていた。彼の仕事は一応まだ入社時と変わらずハルの補佐ということになっているのだが、しばしばハルを無視して更に上の先輩や上司に業務の相談や書類の許可を求めに行ったり、無断でクライアントや取引先に手をまわし、事後報告をして来るだけといったことがままあった。
必要以上に出しゃばる行為をハルは快くは思わなかったが、反抗的なのはハルに対してだけで、先輩や上司はこの後輩を単純にやる気のある若手だと思っているようだった。事実、成績も優秀なのだから波風を立てる気などハルにはない。とはいえ、平気な顔をして発注書の作成や納品書の確認、出張先のホテルや車の手配などを頼んでくるのは毎回どうかと思っているが。
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