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第16話

やってしまった、と思った。 スーズに怪我をさせてしまったのだ。 その日は運が悪かった。 終業直前から降り始めた白驟雨に晒されたハルは、会社近くのコンビニでビニール傘を購入して帰路についた。 乗り込んだ電車の中でたまたま眼の前の席が空き、迷わず坐ったところまでは良かった。真新しい傘を手すりにかけたまま、仮寝をしたのが間違いだった。絶え間なく乗り降りが繰り返される車内で狙われたのか、単なる手違いによるものなのか、ハルが最寄りの駅で眼を醒ました時には既に傘は何者かによって持ち去られた後だった。当然、犯人が特定できない以上打つ手はない。 幸い、改札から語学教室がある駅ビルまでは屋根が続いている。傘どろぼうを心の中で呪詛しながらハルはレッスン後までに天候が落ち着いてくれることを願った。アールが傘を持っていたとしても入れてもらえるとは限らない。 今日のレッスン室は、受付から一番離れた奥の部屋だった。本来、レッスン室のように講師も毎回同じというわけでなくランダムに変わるのがこの語学教室のシステムなのだが、ハルはもうずっとアール以外の講師のレッスンを受けていない。水曜日の七時からしかここへは来ないからだ。この曜日のこの時間帯は、他の講師との出勤日や休憩時間の兼ね合いでアールがハルのレベルのクラスを担当する確率が最も高い。アール本人からそう聞いていた。 指定されたレッスン室の扉を開けようとして、できなかった。反射的にもう一度同じ動作を繰り返す。どうやら鍵が閉まっているようだった。物音は聞こえず、壁にも扉にも小窓などはついていないので室内の様子は分からない。 朝一番のレッスンでもないのに鍵の開け忘れ? 不審に思いながらもハルはこのことを伝えるため受付に戻ろうとした。 その時、中から慌ただしくこちらへ向かって来る足音が聞こえた。ハルが振り返ったタイミングで扉が開き、アールが姿を見せた。講師の服装はスーツと決まっている。だが今の彼はネクタイをつけていなかった。上着も着ておらず、開いた胸元に今し方引っ掻いたと思われる赤い痕がある。傷痕と呼ぶほどではない。ある程度時間が経てば消えるものだ。明るい蛍光灯の下でなければハルもはっきりとは見えなかったと思う。嫌な予感がした。 やって来たのがハルだと知ると、アールはまるでつまらないものでも見たという風な表情で部屋の中へ戻って行った。すかさず閉まろうとする扉にハルは手を伸ばし、押し開くと中にはスーズがいた。 明らかに急に身形を整えたという感がある。襟元を手で隠し、髪を撫でつけていた。眼を上げてハルを見たが、例によって何も云わない。アールはホワイトボードの傍で平然とネクタイを結び直している。 先程までこの空間で何が行われていたのか、ハルは知りたくもなかったが、この部屋に満ちた淫靡な雰囲気を嫌でも感じ取った。 このレッスン室の監視カメラは作動していないのだ。全室監視カメラ完備と規約にはあるが、実は八部屋あるレッスン室のうち、二部屋のカメラに不具合があり、そのままになっている。そのうちの一台がこの部屋のカメラだ。 流石にこの場で最終的な行為にまで及んだとは考えられないが、少なくともその手前の、前戯のようなじゃれ合いに及んだ直後の甘ったるい気配が、スーズのやや紅潮した頬から、アールの乱れたシャツの襟や裾から、そして定位置からずれたテーブルから、漂ってきていた。 気まずい沈黙の中、とってつけたようなアールの講師用の笑顔がハルの勘に障った。間違ってもへらへらしているのではない。どういう状況でも決して悪びれず、まるで自分に問題などないかのように振る舞うこの男の優雅とも云える尊大さに、愚かにもハルは惹かれていた。 俺のなのに。この場所も、この男も、自分が何かしらの犠牲を払って手に入れたものなのに。 ――とられる方が悪いんだよ。 ここにいる誰かがそう云ったわけではない。けれどその言葉が不意にハルの耳の中を通り抜けた。 そして今日の酷い雨と、傘の盗難、そして眼前に突きつけられたこの状況が、ハルの理性と衝動のバランスを不釣り合いなものにした。

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