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第17話

ほぼ怒りに任せて、と云っていい。 ハルはアールの笑顔を黙殺し、スーズの前にいきなり詰め寄るとその体を思いきり突き飛ばした。体当たりを喰らわせたのに近い。押された衝撃でスーズは背後のテーブルにぶつかり、そのテーブルが大きくずれたことで床へ倒れ込んだ。当然だが、まさか急に突き飛ばされるとは思っていなかったのだろう。想像していた以上の手応えをハルは感じた。 更にハルは手近にあった恐らくスーズのものだと思われるテキストやワークブックを彼に向かって投げつけた。手当たり次第といった風に見せかけてちょうど硬い背表紙の部分が相手に当たるように投げていた。ペン、ペンケース、何かのファイル、鞄。部屋の椅子、は簡単には持ち上がらなかった。重い。 「莫迦、やめろ」 そう一喝されて、ハルの狭窄していた視界が元に戻った。 アールが動揺と怒りを込めた視線でハルの方を見ている。恐らく最初は唖然としていたはずだが、ハルが椅子を持ち上げたのを見て流石に止めに入ったのだ。この男が自分を真正面から見てくれたことにハルは久しぶりに満足した。そして素直に椅子から手を放した。 ふと、前を見ると既に身を起こしたスーズが、下から見上げるような形でこちらを睨んでいた。 その視線にハルは気圧された。同時に正気に戻り、まずいことをしてしまったと思った。スーズは一言も発さなかったが、その表情から怒っているのは明白だった。迷惑を通り越して強い嫌悪が読み取れる。直後に自身の左手に眼をやり、軽く動かしたり、反対の手で触れてみたりと頻りに気にしていた。 「スーズさん、大丈夫?」 自分の立場を思い出したらしいアールが、慌ててスーズの方へ駆け寄った。 スーズは曇った表情を浮かべ、視線を伏せたまま「はい」と小さく答えた。相変わらず左手首を押さえたまま、時間をかけて彼は立ち上がった。 「手を見せて」 怪我を看る名目でアールがスーズの手を取った瞬間、ハルは眼を逸らした。 その際、足許に落ちていたピンバッジに眼が留まり、ハルはそれを拾い上げた。留具(とめぐ)はなく、飾り部分だけがそこに落ちていた。丸い釦のようなデザインだ。鳩が二羽。 「ハルさん」 アールに呼びかけられ、ハルは身を震わせた。顔を上げられない。アールのことも、スーズのことも見られない。間違いなく二人は冷ややかな目線で自分を見ている。当たり前だ。こんな非常識なことをして、一体どう始末をつければいいのか自分でも分からない。 混乱したハルは、無言で荷物を拾い上げその場を逃げ出した。 いつもより約二時間早く、ハルはいつものカフェに入った。雨はまだ降っている。自分が信じられない。どうしてあんな行動に走ってしまったのか。怪我をさせてしまったとすれば今頃、スーズはスタッフに被害を訴え出ているかも知れない。だとしたら受付はきっとひどく騒然としているはずだ。そうなれば自分は二度とあの語学教室に立ち入りできない。 混乱しているのと無駄に時間がある所為で、ハルの思考は取りとめもない方向へ動き出した。 まさかとは思うが傷害沙汰で警察に訴えられたりしないだろうか。そしてそれが何かの拍子に明るみに出たら。会社はクビとまではいかなくとも格段に居辛くなり、恐らく内勤の部署に飛ばされるに違いない。どうせいつかは辞めるつもりだったが、それは今じゃない。家賃が支払えなくなる。何より両親い、母に、このことを知られるのが何より恐ろしい。今までも決して人に誇れる人生ではなかったが、まさかこんなことで瑕がつくとは。 注文したブレンドに一切手をつけず、長い時間ただ黒い水面を凝視するハルを、先程から入口周辺を掃除している若い店員が変な眼で見ている。品物に髪の毛か虫が混入しているのを直接訴えず無言で仄めかす、面倒で危ない客だと思われているかも知れない。 昔からハルは、何かの拍子にストレスが爆発して一気に放電してしまうような時があった。けれどセックスを知ってからはそれをうまく乗り越えてきた。こんな風になったのは学生の時以来だ。

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