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第18話
夜九時を過ぎたところでスーズが駅ビルを出て行くのが見えた。
ポケットに手を入れていたため、捻ったと思われる手首がどうなったのか、ハルには分からない。雑踏に紛れる寸前、不意にスーズはカフェの方を振り返った。眼が合う前にハルは咄嗟に俯きその場をやり過ごそうとした。数十秒後、顔を上げた時にはもう彼の姿はなかった。
その十五分後、アールがウィンドウのすぐ向こうを通り過ぎて行った。
いつもの硝子を叩く合図どころか、カフェを一瞥する様子すらない。帰ったと思われているのかも知れなかったが、ハルは即座に無視を決め込まれているのだと感じ取り、ぞっとして立ち上がった。
ハルがカフェを出た時、アールの姿は駅前広場の何処にも見えなかった。いつもより彼の歩く速度が速いのだ。ハルは慌てて跡を追った。
「アール」
駅前の路地でやっとのことでハルはアールに追いついた。声をかけたのとほぼ同時に相手の腕に触れる。アールは振り返って自分の肘を掴むその手を露骨に注視してきた。躱すのではなく、その視線にハルがたじろいで自分から放すのを待っている。
ハルが手を放すと、アールは周囲を見渡した。少々過剰なほど彼は二人の関係が表沙汰になることを警戒している。
「外で呼ぶな」
歳上の男の不機嫌そうな眼差しを受け、咄嗟にハルは自分の方から何か云わなければならないと感じた。軽蔑と冷淡に染まった青い視線がハルの体を冷気で包み込む。
「あいつと何話したの?」
「あの場でお前のこと以外に話す話題があると思うか。何でスーズにあんなことしたんだ?」
アールの口調は穏やかではない。既にスーズの味方についたような態度だ。この男なら事情を察してもおかしくないのに、分かりきったことを訊ねてくる。
「お前がスーズを気に入らないと思ってるのは知ってた。けどまさかあそこであんな暴力を振るうなんてな」
「暴力、って大袈裟だ」
「あれが大袈裟だなんてどの口が云えるんだ?お前、椅子を掴んだよな。俺が止めなかったら何してた?」
「本気じゃないよ。単なる脅しだ」
「怪我までさせといてそんなのが通ると思うのか。あいつは手首を捻挫してるかも知れないんだぞ。利き手じゃなかったとはいえ、帰り支度も不便そうだった」
「捻挫?」
そう訊き返した自分の声はひどく気弱になっていたとハルは思う。アールは呆れたというだけでなく、うんざりしたような態度と侮蔑をいっぺんに込めた眼を向けてきた。
「ありがたく思えよ。スーズが今日の帰りに、受付のスタッフにお前のことを訴えるって云うのを俺が何とか次の機会まで引き延ばしてやったんだから。お前、次にあいつに会ったら今日のことを即謝れ。謝罪さえすれば許す気はあるそうだ。怪我をさせられたのに言葉一つで許すなんて、ほんとできた奴だよ。俺だったら絶対に許さない」
そう云うとアールは歩き出した。
それだけ?
一つも自分の云い分を聞いてくれないアールをハルは悲しい気持ちで見つめた。いや、そうだ。何があってもこの男は自分の味方をしてくれることなどないのだった。ハルが何を云っても、絶対と云っていいほどアールは真逆の立場をとる。気持ちを理解しようとしてくれたことなど一度だってないのだ。
「・・・嫌だ」
「何だって?」
瞬時にアールの視線が鋭くなる。
「あいつに悪いと思えない」
「お前、口答えできる立場か?」
凄んでくるアールに対し、ハルは後退りした。
「あいつとあそこで何してたんだよ?」
自分の行動が浅はかだったのは重々承知している。自分が何と云おうとこの男が取り合わないことも。だが自分がどうしてこんな行動に出てしまったのか、少しは考えて欲しかった。
「何ってレッスンの準備に決まってるだろ。スーズとは雑談してただけだ」
そう云ってアールは再び歩き出そうとした。
「話し声なんか聞こえなかった。鍵までかけて」
「手違いだ。だから何だよ?」
「体でも触り合ってたんじゃないのか」
舌打ちをされた。ハルの体に緊張が走る。
「何の証拠があるんだよ?第一、何でお前にそんなこと責められなきゃならない?」
「・・・あいつの方が優秀なのは分かってる。それに若いってことも」
ハルは今、自分がものすごく卑屈な人間に思えた。アールは落ちのない話を延々と聞かされた時のように溜息を吐いた。
「何が云いたい?」
「あいつと同じように扱われたいんだよ」
「何云ってるんだ」
アールは正面から瞳を据えてきた。無言の圧をかけられて再びハルは黙した。彼はハルの云いたいことを十二分に察知した上でその沈黙を許さなかった。
「黙ってちゃ分からない」
「スーズとは何曜日に会ってるんだよ?」
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