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第20話

「けどお前にそういう態度は似合わない。俺はお前の素直で気の利くところが気に入ってるんだ」 ジャスミンとムスクが入り混じった香水の香りがハルの鼻先に届いた。先週までと違う。また香水を変えたのだ。けれど、その複雑な香りはアールによく似合っていた。彼はどんな匂いでも自分のものにしてしまう。そしてしょっちゅう変わるそれと同じく、いつも掴みどころがない。 「嫉妬してくれるのは嬉しい。だから先刻みたいなこと、本当は俺だって云いたくない」 もうこの手には乗らない。この男にはいつも踏みにじられてきた。自分の方から、もう終わりにしようと云ってやったら、彼はどんな反応をするだろうか。 「・・・悪かったよ」 喉まで出かかっていた言葉が一体どこで変わったのか。 ブルートパーズの瞳が放つ輝きにハルは逆らえなかった。この男が心底恨めしかった。この男から自分のプライドを守ることが、孤独と隣り合わせであることをハルはよく分かっていた。 「本当に、その、迷惑かけて」 「うん、それで?」 柔らかい声色と視線なのに、何故か突き刺さる。怯んで足許へ視線を落とすと、自分の存在価値まで落ちていく気がした。アールがどういう云い方を求めているのか、本当のところハルは分かっている。 「ごめんなさいは?」 「・・・ごめん、なさい」 俯いたままだったが、声だけははっきり届くようにそう云った。アールはこの響きが好きなのだ。この男にまだ縋りつくと決めた以上、引っ込みがつかなかった。謝るくらいで彼の機嫌が治まるなら安いものだと思う。 「もう一回」 再度ハルは同じ言葉で謝ったが、その後もアールには許したような様子が見られない。 「それだけ?」 アールは自分が確実に上に立っていると確信するまでは、本当に執拗く自分の機嫌をとるように仕向けてくる。 「・・・好きだよ」 思い詰めた声でハルは呟いた。 アールは長めの瞬きをした後で、 「お前の方が俺に付き纏ってるんだからな。割り切れないなら、俺の前から消えろ」 と、先程までとは百八十度真逆の冷ややかな眼差しをハルに向けてきた。その後でさっと手を伸ばしてハルの荷物を一つ持ってくれ、もう片方の手で背中に触れてきた。 突然の親切に途惑いながらも、許してもらえたのだとハルは油断していた。そのまま黙っていたところ、出し抜けに襟足の部分を掴まれて顔の向きを変えさせられた。 「返事は?」 「分かったって。痛い」 アールはすぐに手を放した。人の気配がしたからだ。通行人が過ぎ去るまでの間、彼は勝ち誇った冷酷な悪戯っ子の眼をしていた。 それでも次に体を引き寄せられた時、やはり彼の掌は温かいと思った。普段は外で連れ立って歩くことさえ嫌がられるのに今日は肩に触れてくれている。それだけでもうここから動けない。単なる気紛れだと分かっていても、この一時の優しさに体が熱くなる。 またこの男に踏みにじられる道を選んだ。 だから? この男は自分の性欲を満たすため。 自分はこの男で孤独を忘れるため。 結局、互いに自分のことしか考えていない。薄情なのはどちらも同じだ。 けれどアールにはいつも他の誰かがいる。その美しい容貌と人当たりの良さから彼の誘いに応じる者は多い。 自分にはアールの代わりはいない。彼と違って持たざる者なのだ。だから、惨めな思いをするのは仕方がない。 「そう云えばスーズのことだけど」 その夜、アールから思いもよらないタイミングでその名前が出てきて、ハルは舌の動きを止めた。 「お前に突き飛ばされた時に、バッジだか釦だか、失くしたらしいんだよ。見てないか?」 ハルは一度、アールの性器から口を離して唾液を呑み込んだ。眦に滲んだ涙を拭う。 「さあ」 「かなり焦ってた」 「・・・じゃあ、値段の高いブランド物か何かなんだろ」 「それは知らないけど、結構必死で探してたからそういう類のものなのかもな。お前と揉み合う前までは身につけてたらしいから、あの時失くしたはずだって云ってたけど」 ハルは内心、教室内で拾ったピンバッジのことだろうと見当がついていた。だが正直に話す気はなかった。もしあれがスーズの探しものだとしたら、自分と同じようにあの男も困ればいいのだ。 「知らない。見てない」 それだけ伝え、再度口淫に取りかかろうとした時、アールが思い出したように口を開いた。 「ああ、そうだ。お前、もし今回のことが表沙汰になって教室を出入り禁止になったら、最初に入金した授業料は返って来ないからな」 自分が引き起こした問題を改めて認識したハルは再び追い詰められた。万が一そんな事態になったらハルにとっては大金と云える額を(どぶ)に捨てることになる。他の語学教室に入り直す余裕などあるわけもないし、アールと離れるのも嫌だ。それに、大金を引き出したことを知っている母親に、一体どう云い訳すればいいかも分からない。 「出入り禁止になると思う?」 「何もしてない歳下の学生に突然暴力を振るったんだから、社員達にもいかれてると思われて当然だろ」 アールは明らかにこのことを面白がっていた。 身から出た錆とはいえ、眼の前の男の態度にハルはやはり釈然としない。しかしそんなことより、実害が生じる可能性がある以上、スーズに対しては何らかの対策を講じなければならない。アールの云う通り、謝りに行くことが得策だろうか。 「・・・なあ、スーズが次に来る日って」 「集中しろ」 アールに頭を押さえつけられ、先程までよりも彼の亀頭が深く強くハルの喉奥に当たった。雑念を吹き込んできたのは向こうなのに、とことん自分勝手だと思う。 だが、ある面でハルはこの男を尊敬していた。 アールの揺るぎない自尊心はハルには持ち得ないものだった。こうしてこの男がするように、誰かを支配した経験などハルにはない。きっと自分にはできない。 この男は命令することができる。どうすればいいかはそれで分かる。彼が求めている自分の姿が見えてくる。それに従っていれば傍にはいられる。 一人にならなくて済む。 いくらかの反発心をハルは感じながらも、アールに振り回されることに甘美な悦びを感じているのもまた事実だった。

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