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第22話
「冷静に聞け」
「初めから冷静に聞いてます」
「俺はアールから謝罪さえすればお前は俺を許すって聞いてる。謝り方とか礼儀とか、そんな細かいことは聞いてない」
「ええ、そんな指示はしていませんから」
「だったらそれはお前の落ち度だ。俺は謝った。お前は約束を守るべきだろ」
四階に着いたところでスーズは自分から進路を逸れた。振り返ってハルを見据えてくる。
「守る気なんかありませんよ」
「は?」
「あなたがどんな言葉で謝ろうが、たとえ土下座しようが、これっぽっちも許す気なんて私にはありません。あなたにあんな風に絡まれた所為で、あの時私はとても大事なものを失くしてるんです。だから絶対に許す気なんてない」
「大事なもの?」
「ええ」
スーズは喋っている間、ハルとずっと眼を合わせ続けていた。
「怪我に関しては仰る通りです。確かにあの時、手首は捻りましたがそんなにひどいものじゃありません」
話しながら服の袖を少し捲り、白い包帯をちらりと見せてきた。
「これはあなたを追い出す口実です。・・・もしあなたが本気で、誠意を込めた言葉で謝ってきたなら少しは私の気も変わったと思いますが、もう手遅れです。どうせ全部口先だけでしょう?あなたのような危険人物が周辺にいると思うと勉強も捗りません。何より、あなたの所為であの飾りが何処かへ消えてしまったことが私は許せない。あれは他で簡単に手に入るものじゃないんです」
憎々しげに睨 めつけてくる割に、言葉遣いは乱れない。真面目で一本気な性格の若者なのだろうと思う。だがそういう人種は得てして、一旦敵と見做した相手には容赦がない。アールのような人格に根差した冷淡さは感じなかったが、取りつく島がないのはよく分かった。
「あなた、今日はレッスンがないんですよね。新しい語学教室をお探しになって見学でも行かれたらいかがですか?」
嫌味を云い残すと、スーズは即座にハルに背を向けた。
「ねえ、待ってよ」
ハルは柔らかい声色で相手を引き止めた。
「そんなに大事なものだったのか?それ」
「ええ」
「それってもしかして、これのこと?」
懐から例のピンバッジを取り出し、足を止めたスーズに向かってその掌を開く。
瞬時に相手の顔色が変わったのをハルは見逃さなかった。
手にしているピンバッジは留具 がない状態だ。鋭い針部分が剥き出しになっているので扱いに気をつけなければならない。
だがスーズの手が伸びてきた瞬間、ハルはすぐさま手を握り込んで腕を引いた。間違いない。スーズはこれを必死になって探していたのだ。
「やっぱりお前のか」
「返して下さい。探してたんです」
スーズの眼は真剣だった。これまでと違い、ただ睨みつけてきているのではなかった。ふてぶてしさが消え、真剣勝負を挑んでくるような顔つきになっていた。
「へえ、そう。お前のだって証拠ある?名前書いてないけど」
スーズはハルの軽口には答えず、今度は無遠慮にハルの腕を掴み、掌をこじ開けようとしてきた。かなり躍起になっていて、これまでの余裕はどこへ消えてしまったのかという振る舞いだった。
ハルは思いきり身を捩って腕を引き戻そうとしたが、スーズはこれを取り戻すことにまるで生死がかかっているかのように手を放してはくれない。このまま揉み合い続ければ力で負けてしまうとハルは感じた。
「すみません、警察呼んで下さい」
途端にスーズは息を呑んだ様子で手を放した。ハルが上げたのはそう大きな声ではなかったが、スーズは周囲を気にする素振りを見せた後、居心地の悪そうな顔でしたり顔のハルを睨みつけた。
「・・・子供じみた真似しないで下さい。早くこちらへ」
「子供じみた真似をしてるのはどっちだよ。怪我したふりなんかして」
この若い男は今の今まで自分を脅していたのだ。みすみすこの機会を逃すものかとハルは思った。
「これを返したら、昨日のことは誰にも云わない?」
スーズは初めてたじろぐ様子を見せた。ハルがこの学生の意向を訊いてみせたのは単なるポーズだ。実際は自分が優位に立ったことを充分に自覚していた。
「どうなの?それとも遺失物の問い合わせをした後で、その包帯をちら見せしながら受付の社員の女の子達に俺の悪口を吹き込む?どっちがお前のしたいことなの?」
反論しようとしたのだろう。スーズは一度口を開きかけた。だが自身の分の悪さを悟ったのか、俯いて少しの間視線を彷徨わせた。その様子を見て、ハルは初めてこの歳下の男を可愛らしいと思った。
やがて何が大事なのか肚を決めた様子でスーズは、
「分かりました」
と、呟いた。 明らかに不服そうな表情だった。
「あなたが私にしたことは誰にも云いません。ですからそれは返して下さい」
「どうせ口先だけだよな」
先程相手に云われたことをそのまま返すと、彼の途惑いが手に取るように分かった。
「ねえ、ちょっと時間ある?話そうよ」
「これからレッスンが」
「そうか。まあこんながらくたがどうなろうと、お前にとっては大した問題じゃないしな」
「がらくたじゃありません」
今までで一番大きな声をスーズは出した。ハルはますます興味をそそられ、嗜虐心を刺激された。彼が狼狽 えるだけ、ハルには余裕ができる。
「下のカフェでお茶しようよ。二人きりで」
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