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第27話(加筆修正)

ユニに抱かれたいと思ったことが一度もないかと云えば、そうは云いきれなかった。 アールはハルにとって最高の男だったが、彼はどうあっても水曜日の夜以外は会ってはくれない。代わりが、補うものが欲しくなる時もあった。不安や寂しさはいつも決まった時に襲ってくるとは限らない。 ただ、どんな状況でもハルからユニに信号(シグナル)を送ったことはない。寝台(ベッド)で指示通りに動きはしても、決して自分から彼を求めはしなかった。それが唯一残ったハルのプライドで、理性だった。向こうから仕掛けてくれば利用はするが、あんな目に遭わせた相手を求めたりはしない。 ユニとのあの最初の日は、手洗い場の何処かから立ち昇ってくる下水の臭いとそれ以上に強い香りの芳香剤の所為で、頭の中がぐらぐらした。吐き気を覚えるほど気分が悪くなった。 自分の身に起きた世間の常識の埒外の被害を何処かに訴えるわけにもできず、ハルが唯一できたのはもう二度とあんな状況に陥らないよう細心の注意を払わねばと決心することだけだった。 スーズとの約束から六日が経っていた。 所用で総務課へ足を運んだ帰りに、ハルは首から下げていた社用携帯が着信を知らせるのに気づいた。総務課へ行った帰りで量の多い書類を持った状態で階段を上っていたので、画面を確認するのに少し手間取る。総務課は二階でハル達の営業課は三階なのでエレベーターを待つより階段を使う方が早いのだ。 着信画面を見た瞬間、心臓が波打った。 全身を一気に電光石火のような緊張が走り抜けた気がした。 かろうじてすれ違った別の課の社員に挨拶をするだけの平静さは保ったが、ハルは仕事の書類を抱えたまま喫煙所へ直行した。 電話には出たくない。だが一方的に着信を断絶することもできなかった。迷っているうちに無機的な催促が止む。 前回の電話からもうひと月経過したのか?いや、まだあと一週間はあるはずだ。また何か、思いつきの用事だろうか。相手が電話をかけてくる理由をあれこれ思案しながらも、ハルはそれが当てにならないことを心の奥底では承知していた。 喫煙所は無人だった。 ハルは綿がはみ出たパイプ椅子の上に抱えていた書類を置き、もう一脚を部屋の隅から持ってきて腰を下ろした。煙草に火を点け、吸った烟を吐き出してから長い瞬きをする。 息が苦しい。いつもこうだ。 母親が接触してくると、ハルは自分の周りだけ酸素が薄くなったような気持ちになる。 寒さも暑さも感じない。何なら、痛覚も鈍くなる。灰皿を引き寄せようと再度立ち上がると、胃に不快感があった。両の目頭を何度か指圧する。閉じていた瞼を開くと、視界が揺らいだ。 おかしいだろうか? 自分の母親から電話がかかってきたぐらいで、ほぼ毎回と云っていいほど、こういう状態に陥る。 改めて社用携帯の画面を見ると、留守番電話の表示が入っていた。母は勤務時間中であろうと用事を思いつけば、お構いなしに電話をかけてくる。ハルは会社から支給されている社用携帯とプライベートの携帯の二台を持っているが、母には社用携帯の番号しか教えていない。 節約のため、個人用の携帯は一人暮らしを始めた際に解約したのだと母には嘘を吐いていた。そう伝えておけば、彼女からの無駄な電話を牽制できると思ったからだ。 ハルは両親が好きではない。二人はハルが十五歳の時に離婚している。それ以降は母と妹との三人で暮らしてきた。父はハルの就職後、ほぼ連絡をしてくることはなくなっていたが、母は月に一度の割合で電話をかけてくる。社会人二年目で実家を離れてからずっとだ。 はっきり云ってこのマンスリールーティンはハルの精神衛生上最悪で、母と電話をした日は大抵寝つきが悪くなる。だが携帯の着信に出なければ、母は躊躇なしに会社に電話してきてしまうことが分かっているので、いつも仕方なく電話に出ている。大した用事があるわけではない。母なりの母子交流のつもりなのかも知れないが、毎回ほぼ一方的に母が喋っている。それを三十分から四十分。ほぼ拷問に近い。 履歴を無視して留守番電話を消してしまいたい衝動に駆られたが、喫煙所を出た直後、思い悩んだ末に手洗いに立ち寄った。結局そこで母からの音声メッセージを再生した。 今回の母の用件は、土曜の昼にこの付近へ出かける用事があるので、予定はどうなっているのかというものだった。 『部屋が今、どんな状態になっているのか見せなさいよね。全く、こっちからかけなきゃ全然連絡を寄越さないんだから』 という一方的な報告と要求で締め括られている。 予定がどうなっているのか、という最初の言葉は質問ではない。母は初めから念押ししているのだ。もちろん予定を空ける気はあるのよね、と。 うちに来る?今夜は寝つきが悪くなるどころか、寝ている間、始終(うな)されそうだ。 一体何のためにあの人は自分と関わろうとするのだろう。 何を見ても聞いても、母は決して今のハルを認めはしない。彼女は息子がもう何者にもなれないということを頭では悟っている。かつてあれだけの時間と労力と金銭をかけて英語教育を施すことに心血を注いできたのに、その息子は今や英語を捨て、うだつの上がらない中小企業の社員。それが母は許せないのだ。 どうしたら緊張を孕まない普通の親子関係になれるのか。ハルは長い間、そのことで悩まされてきた。 そしてある時、遂に諦めた。 二十八にもなって母親の云うことに振り回されるのはやめよう。何でも好きなように云わせておけばいいじゃないか。月に一回の電話ぐらい親孝行の範囲内だ。大学に行けたのは母のおかげだし、これまで衣食住のどれにも不自由したことはない。いくつになっても文句が多いのが親の性だ。直前になっていきなりの訪問?笑って許してやればいい。ちょっと困った派手でお喋りな母親。ただ、それだけのことだ。 そう思いきったはずなのに、ふとした時に思う。 あの人が人生から消えてくれたなら、どんなに自分は楽だろう、と。

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