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第28話

ちょうどその日は上司と先輩一人と共に取引先との食事会に参加することになっていた。 直前になってハルはユニが加わったことを知らされた。事情がどうあれ、上司が決定したことであれば仕方がないが、正直云って嫌だった。 ユニは終始そつがなかった。今回も受け答えはしっかりしていたし、さりげなく飲み物を追加したりおしぼりの交換を頼んだりと、細やかな気配りを見せていた。その上で無理に自分をアピールしようなどとはせず、末席でにこにこ笑っていた。 午後十時前にお開きとなり、取引先を見送った後でハル達も帰路についた。 上司や先輩達との関係性は良い方だと思っているが、疲れている時は一人の方が気楽だ。ハルは駅近くのコンビニ前でありもしない用事を口実に、他の三人と別れた。 少し雑誌を立ち読みし、適当な飲み物とサラダを購入して外へ出た。 ユニがいた。 片手に携帯を持ち、明らかに暇を潰しながら待っていたという感がある。店の中へ避難しようかとも思ったが、しっかりと眼が合ってしまい、今更引っ込みがつかなかった。彼の前を通らなければ駅には行けない。 素知らぬふりで彼の前を通り過ぎようとしたところ、やはり横合いから声をかけられた。 「先輩、良ければちょっと付き合って下さいよ。呑み直しましょう」 その口調はどこか裏を感じさせるところがあった。誰が?と即答しそうになるのを呑み込んで、ハルは前を向いたまま無言で再び歩き出した。この男と仕事以外で関わり合う気は更々ない。 「無視(シカト)してんじゃねえよ」 人格が入れ替わったかのような低くどす黒い声に、ハルは背を向けたまま色を失った。こういう時は一切の反応を示さないのが一番なのに、相手が近づいて来る気配を察知し、強い警戒心から彼の方へ真っ直ぐ向き直ってしまった。 「最初からそうやってちゃんと人の顔見ときましょうよ」 相手と眼を合わせたハルは、体を掴まれたわけでもないのに身動きがとれなくなった。 以前、彼と二度目があった時も同じような感覚に陥った。 暴力はなかったが、眼で脅されて二度目のセックスに応じた。こういう眼をした男には逆らえない。俗に云う頭の螺子が外れた人間。良心が欠如していて、相手を思い通りにするためなら手段を厭わない動物の眼だ。欲望のためにぎらぎらしているのとは違う。もう獲物は手に入れている。支配できることは分かっている。どういう風に喰い尽くすかだけを悪意なしに考えている。相手の感情など当然の如く無視している。そして逆らえば容赦しない。 二度目があったのはビジネスホテルの一室で、場所こそ前回よりましだったものの、一度目に違わずセックスはひどいものだった。髪を引っ張り回され、背中を踏みつけられ、散々に前後の性器を弄ばれた。泣き喚いているわけでもないのに声がうるさいと云われて首を絞められたので、痛みや圧迫感は呼吸を止めてやり過ごすしかなかった。そして三度目があった時、どうやらこの厄介な男に完全に目をつけられてしまったらしいと悟った。それからはもう回数など数えていない。 歳下の男に完全に射竦められた状態で、ハルは声を絞り出した。 「・・・頼むからこういうことはやめろ」 「あんた、本気で嫌がってないでしょ。分かるんだよ」 そう云ってハルの肩や背を執拗(しつこ)く押し、強引にタクシー乗り場へと向かった。 「そう云えばこの前、英語で喋ってましたよね」 ホテルの部屋で服を脱ぐよう指示されたばかりのハルは、ユニが最初何を云っているのかすぐにはぴんとこなかった。一瞬後で、前回の出張で迷子の少女に話しかけた時のことを云っているのだと気づいた。 「びっくりしましたよ、あんな特技があるなんて」 「・・・別に、そんな大したものじゃない」 「能ある鷹は爪を隠すってやつですか。そうやって腹の底では俺みたいな周りの人間を見下してるってわけですね」 「そんなんじゃ」 ユニと話す時は、なるべく視線を逸らしている。そうしないと緊張で脳味噌が固まってしまい、碌に喋れない。とはいえ、照明が消えればどのみち言葉など必要ないのだが。 「隠す必要ないでしょ。この前、ブランから聞きましたよ。中学まであの英語教育で有名な私立校に通ってたんですよね」 余計なことを。ブランの能天気な顔が一瞬頭を過る。仕方ない。軽く口止めはしてあったが、あの後輩はユニのことを心から信頼している。何を話しても悪いようには転ばないと思ってきっと色々なことを打ち明けているのだろう。 「金持ちはいいですよね。最初から整った環境を与えられてそれが当たり前だと思って育ってるんだから。あんたに競争心が感じられないのは常に満足して育ってきたからじゃないですか?」 「そうだな。ここに来るまでお前みたいな品のない奴とは縁がなかったよ」 ユニがこちらに眼を向けるのが分かったが、ハルはずっと視線を逸らしていた。 ユニは煙草を消して近づいて来ると、ハルの眼の前に立った。そのまま無言でそこに佇んでいた。絶対に自分を見下ろしているという確信がハルにはあった。やがて頭上からの圧に負けて、彼を見上げた。 「ねえ、せっかくだから英語で云ってみて下さいよ。セックスして下さいって」 「ふざけるな」 ユニの手がハルの顎を掴んだ。 「いいから云えよ」 ハルはそれを答える代わりに、『消え失せろ』という意味のスラングを吐き捨ててやった。 ユニはすぐに命じた意味の言葉ではないことを察知して、眼の色を変えた。そして容赦なくハルの頬を張った。 間を置かずに圧しかかって来られ、ハルは体の力を抜いた。 帰り道で、ユニに云い当てられたことがハルは口惜しかった。 本気で嫌がっていない。 その言葉は図星だった。 今夜はわざと帰り道、一人になった。ユニならきっと隙を見せた自分を捕まえると思った。今夜は雑に扱われて怪我の一つでもしたかった。母のことを考えたくなかったから。 テーブルの上に置いた携帯電話が忌まわしい物のように存在感を放っていた。 自分の中にある孤独やだらしなさからも、自分を生み落とした人間からも、逃れる術が思いつかない。

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