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第29話
金曜日の夕方、スーズと会う約束をした。
火曜の夜に、アールと話をつけたという旨のメールが入っていた。
ハルは翌日にでも彼と会って話をしたかったが生憎、水・木と連日で夕方からのクライアントとの打ち合わせが入っていた。木曜はともかく水曜日の打診は普段なら断るのだが、その週の水曜日は語学教室の休業日だった。
駅ビルの法定点検日ということで、語学教室に限らず全店舗休業、終日閉館しており、当然、こういう日はアールにも会えない。事前に休業日を把握していたハルは自分が欲求不満になることを見越して、前もって夜に差しかかる仕事を入れてしまっていたのだ。
そんなわけでスーズに会えたのは、その週の金曜日、夜七時過ぎだった。
直前までスーズは語学教室でレッスンを受けるということだったので、ハルの方が駅ビル前で彼を待つことになった。
七時を三分ほど過ぎたところでスーズは姿を見せた。
ハルを見ても表情一つ変えなかったが、いつもより一層不機嫌で暗然として見える。だが大して気にせずハルは彼に近づいて行った。先に口を開いたのはスーズの方だった。
「アールと別れて来ましたよ」
「ありがとう」
ハルは欲しかったものを与えられて素直に喜んだ。
「今ならお前が好きになれそうだ。抱き締めてもいいか?」
「お断りします」
浮足立ったハルにスーズは咎めるような視線を向けてきた。
「それより、あの人がどういう人か本当に分かってて、あなた付き合ってるんですか?」
「何だよ、何怒ってる?」
スーズの剣幕に押されてほんの少しハルは怯んだ。互いに納得して交渉したはずだ。そう云いかけた時、ハルの携帯電話の着信音が鳴った。スーズも何か云おうとしていたようだがハルの電話の音に気づくと、
「どうぞ」
と溜息混じりに電話を取るよう促してきた。
仕事用の携帯電話の着信音だった。画面に表示されているのは知らない番号だ。未登録の番号は仕事関係の、特にクライアントからの可能性が高い。一度電話に出て、後程かけ直すと伝えた方が心象が良いだろう。この小生意気な学生の前で社会人としての対応を見せつけることもできる。ハルは手帳を取り出し、すぐにでもメモをとれる態勢で電話に出た。
「はい」
ハルが至極穏やかな声で社名と個人名を名乗ろうとした矢先、電話相手の声が覆いかぶさるように受話口から聞こえてきた。
「もしもし、あんた今何処にいるの?」
「・・・はい?」
画面表示を確認し、もう一度耳に充てる。
その時手帳の間から、名刺が一枚舞い落ちた。ハルの名刺だ。いつでもどこからでも取り出せるよう、支給された名刺を小分けにして持ち歩いている。一枚、手帳のポケットから抜けてしまったらしい。少し離れて立っていたスーズの足許にそれが滑るように着地し、彼はそれを拾い上げた。ハルはその一連の流れを見ていたが通話相手の声に集中しなければならず、名刺は後で回収しようとあまり気に留めなかった。
「聞こえてる?今何処にいるの?」
二度目で声の主が誰だか分かった。
ぞっとしたなどと云ってはいけないことは分かっている。ただ、あまりにも急だったからびっくりしただけだ。それこそ、体中の血が凍りつきそうなほど。
「・・・母さん」
「周りの音がうるさくてよく聞こえないの。ねえ、仕事は終わったんでしょ?」
「ああ、今帰りで」
「だから、何処にいるのよ?」
「家の近くの駅だけど」
「の、何処?」
「何処って、・・・駅ビル前」
母もどうやら外にいるようだ。よく聞こえないと云っているが、ハルには母の声が充分すぎるほど耳に響いている。少し耳を電話から離したほどだ。ハルの現状の確認もなしに矢継ぎ早に質問が飛んでくるのはいつものことだが、こういうのは何だか責め立てられているような気になる。
スーズは手持ち無沙汰な様子でハルの名刺の表裏を眺めていたが、やがて電話中のハルと眼を合わせてきた。
その時、
「ああ、いたいた」
という声が電話の向こうから聞こえ、そこで唐突に通話が切れた。
まさか、という思いで辺りを見回す。
スーズが怪訝な眼でこちらを見ているが、今はそれどころではない。
一通り周囲を見渡したところで、眼を疑った。
母がいた。
ハルが自分に気づくのが遅れたことに、些か苛立った様子でこちらへ向かって手招きしている。
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