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第30話

「何ですぐ気づかないのよ」 「まさかいるなんて思わないだろ」 「だから思いっきり手振ってたのに、ほんと注意力ないんだから」 「だったら自分の方から近づいて来ればいいじゃないか。そもそも何で今ここにいるわけ?」 母はローアンバー、オリーブ、ハニーの三色で点描画のような模様を描いた変わった柄のワンピースを着ていた。その上にゴールドカラーのロングネックレスとジャンパンカラーのジャケットを羽織り、蛇革を使った靴を履いていた。母は特別美人というわけではないが、昔から言葉では云い表せない存在感がある。その素因の一つに彼女のファッションセンスがあった。 「フラットに直接行こうかとも思ったんだけど、玄関先で待ちぼうけを喰らったらやってられないから駅で時間を潰してたの。全く、あすこのカフェは最悪だったわ。珈琲は薄いし」 そう云って母は、ハル達がよく利用する駅ビルの真向かいにある別の商業施設を指した。確かにその1階にも珈琲を提供している店はあるが、そこはカフェではなくベーカリーショップだ。あの店で何か飲むなら珈琲よりロイヤルミルクティーの方が断然美味しいとハルは思っている。 「・・・来るのは土曜だって聞いてたけど」 「そう、それが聞いてよ。今日の夜、ユーコちゃんと食事する約束してたんだけど、突然娘さんに陣痛がきたとかでドタキャンだったのよお。サラちゃん憶えてる?あんたより三つ四つ歳下の。前に会ったことあるでしょ?」 「知らない。憶えてない」 母は急に話が飛ぶ。だがここで遮ったり、煩わしさを露にすると後が面倒なので適当に反応しておく。 「何で思い出せないのよ、あんなに可愛い子そういないのに。彼女の旦那さん、あの有名なYGソリューションズの製薬部門の社員なんだって。ほら、前にも云ったけど一年前に結婚してすぐ赤ちゃんできて。その話はユーコちゃんから聞いてたけど、まさかもう出産日だなんて。時間が経つのが早くて嫌になっちゃう。だけど今日ユーコちゃんからキャンセルの連絡を受けたのが六時過ぎでね、S駅に着いたところだったのよ。だからどうせならちょっと足を伸ばして、ここまで来てみようかなって。どうせ暇なあんたのところに一日早く行っても何の問題もないわけだし」 ようやく話が着地した。実はハルの実家と現在の住まいは電車で二時間ちょっとしか離れていない。S駅で乗り換えてこの最寄駅までは二十分。だから会おうと思えば会いに行ける距離なのだ。 「けど流石にここまで来るのは疲れたわ。食事にしましょう。中華でいい?」 「ちょっと、ちょっと待って」 スーズを完全に放置したままだった。振り返ると、スーズは少々途惑い気味の表情で先程と同じ場所に佇んでいた。母が現れてからここまでの流れを一から十まで彼に目撃されていた。 彼がハルの知り合いだと母に気づかれるともっと厄介だ。ハルは足早にスーズに近づいて行くと、 「ごめん、今日はちょっと」 と声をかけた。そして「また連絡するから」と云いかけたところで母が割り込んで来た。 「ねえ、お友達?」 思わず、違う、と叫びそうになった。 母は初対面のスーズの顔を興味深げに見つめていた。スーズは母の問いかけに何と返すべきか悩んでいたようだが、ハルと一瞬眼を合わせた後、母の視線に遠慮がちに微笑み、会釈をした。 母はすかさずハルに視線を移す。もう逃げられない。最悪の展開だ。紹介しろと母は迫っている。 「・・・語学教室の知り合い」 「あらそう、こんばんは」 母が強引な人柄だということをスーズも感じたはずだ。 スーズがハルよりも若いことに気づいた母は、何の脈絡もなく彼に年齢を訊ねていた。スーズの返答に「へえ、学生さんなの」とやや大袈裟に反応した後で、母はハルの意向を確かめることもなく、突然、 「これから夕食に出るところなんだけど、良かったらあなたも来ない?食事代は持つから」 と云い出した。 やめてくれ、とハルは内心慌てふためく。 「いや、スーズにも用事があるから。急に誘ったら悪いよ」 「何で?学生さんなら節約した方がいいわ。この付近で少しの時間ならいいでしょう?ねえ、どちらにお住まいなの?」 「家は、あの、二つ先のF駅に」 スーズはおずおずと答えた。 「あら、だったらまだいいじゃない。ねえ」 知り合いの親からここまでに誘われると、否と云えないのかスーズは苦笑しながら、「そうですねえ」などと云い始めた。 いや、もう絶対帰りたいだろう。恋敵とその母親との食事に同席する神経など、普通の人間にあるはずがない。何でもいいから適当な嘘を吐いて断ってくれ。 「ではお言葉に甘えて」 信じられなかった。ハルにとっては悪夢の始まりだ。

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