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第31話

結局、駅から七、八分歩いたところにある個人経営の中華料理店に入った。 本当は途中にもう一軒チェーンの店があったのだが、母は大衆向けの店を嫌う。百貨店のレストラン街でも行けば大抵は満足してくれるのだが、残念ながらハルの最寄駅付近に百貨店はないので、携帯電話を使ってなるべく近距離の口コミ評価の高い店を探した。 食に興味がないハルは普段、美味しい店を探して食べ歩きをしたり、話題の店をチェックしたりなどしない。特に中華料理は胃弱なこともあってあまり好まない。その店で使用している油が合わなければ腹を壊すか、気持ち悪くなってしまうのだ。 思っていたより目的地まで歩かされたことが母は不満だったらしい。自宅周辺のレストランも把握していないのかと愚痴を零し、ハルが地図を確認する度いちいち溜息を吐いていた。ようやっと目的地に着くと、 「ちょっと小洒落た店にすんなり案内できないような気の利かない男はモテないわよ」 と、莫迦にしたような笑いと共に店へと入って行った。 店内は混み合っておらず、三人では広すぎる円卓に通されたことでハルは少々不安になった。口コミの評価が並より上の店を探し当てたつもりだったが、本当に流行っているのだろうか。 他人が同席していようと何だろうと、母は気に入らない料理には手をつけない。 以前もこうして母の意向で中華料理店を探したことがある。あの時は油が多いだの、味が大雑把だの、散々に文句をつけた挙げ句、最終的に「不味い」と云って匙を放り出した。とにかくハルが知っている限り、自分の母ほど気紛れで我儘で厄介な人物はいない。 どうやら今回の店の料理は母の口に合ったようだった。 母は息子よりも初対面のスーズに興味を示し、道行く途中でも彼を相手に喋り続けていた。昔からこうだ。母はハルの友人達と顔を合わせると、まるで自分の友人に会ったかのように接する癖があり、ハルはそれに心底辟易していた。中学生の時など、ハルの友人達と携帯電話の番号まで交換していた。いくらエスカレーター式の私立校で幼稚舎から家族ぐるみで仲良くしている同級生が多いとはいえ、自分の領域に侵入してくる母親にハルは当時から嫌悪感を募らせていた。これが外部の人間と接触する際に出る母の悪癖の一つだ。 「語学教室ねえ。長続きすればいいけど。ほんとにあんたは昔から何をやっても中途半端だったものねえ」 そしてもう一つの悪癖がこれだ。ことある毎に人前で息子を揶揄するような態度をとる。自尊心を大いに削られるこの行為が始まると、ハルは貝になる。 「二十八にもなって未だに自分のことばっかりなのよ。大した企業に勤めてるわけじゃないから、相手が見つからないのか結婚の話もないし。中学までは私立に行かせてたし、大学だって出したのに何の意味もなかったわ」 母は半ばスーズに聞かせる調子でそう話した。スーズは何も云わなかったが、口許の笑みは絶やさないまま充分な間の後、 「あ、飲み物追加されますか?」 と、母に訊ねていた。 スーズはハルの斜向いに坐っていたが、ハルの反応を窺ったりはしなかった。 「ねえ、あなたみたいな若い人から見てこういう社会人どう思う?」 母はハルを示しながら云う。 「あなたは優秀そうな学生さんだから云っておくけど、こういう風になっちゃだめよ。英語も今はこの子と同じレベルで勉強してるかも知れないけど、あなたはどんどん先に行けるはずだから。ねえ、あんた今英語で何かができてるわけじゃないもんねえ?」 後半はハルに向かって云っていたが、ハルは料理に集中するふりをしてその言葉を黙殺した。こんな問いかけに返答するのに相応しい言葉などない。 「ね?この通り愛想もないでしょ?これじゃあ結婚できない理由が分かるわ。部屋も散らかし放題だから女の子なんて到底呼べないと思うけど。転勤で今の部屋に引っ越した時もね、学生時代からのセンスのないごみみたいなものを後生大事に持って行ったのよ。ほんと、豚小屋じゃあるまいしって毎回云ってるの。ねえ、あなたはお付き合いしてる女の子とかいるの?」 「いえ、勉強が忙しくて」 スーズはアールが云った通り、確かにできた男なのかも知れない。こういう時は表情を見られたくない。 酒は呑まないというスーズに母は一杯ぐらいと、無理矢理ウーロンハイを勧め、注文を取りに来た店員に、酒を薄めに作るよう指示した。 「もう離婚したんだけど、この子の父親は事業に失敗してるの。本当に向こう見ずな人だったから自業自得ね。だけどこの子みたいにうだつが上がらないってのも困りものよ。うちの男達はほんとだめ。私は時代の所為もあって、結婚を機にキャリアを諦めたけど、それまではずっと証券会社勤めでね、月数百万の収益は稼ぎ出してたから」 「本当ですか?」 スーズは驚いたような声を出していたが、それが本心なのか建前なのかハルには分からなかった。 「ええ、当時社内では何度も表彰されたわ。ほんとに、私が男に生まれるべきだったのよ。この人なんかは折角男に生まれたのにその人生を無駄遣いしてるの。そうでなかったら社会人になってもう六年経ってるんだし、親をちょっとした海外旅行に連れて行ってもいい頃じゃない?一体いつになったら親孝行してくれるのかしらね」 親孝行の基準は母の中で勝手に決まっている。そのハードルを越えない限り、自分はちゃんとやっているなどと云ったところで母に分かるわけがなかった。 一見、このようにハルを否定し、何一つ認めない母だったが決して自分を嫌っているわけではないことをハルは知っていた。だからこそ性質が悪かった。 「愛しているのだから、自分が気に入るような人間に変わりなさい。だってママの云うことは正しいでしょう?」 そんな母のメッセージがこれまでずっとハルに重い圧痛を与えてきた。物心ついた時にはそんなメッセージを自分は既に知っていた気がする。

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