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第32話

必要以上に頼んだ料理は三分の一ほど残った。 ハルが店員から持ち帰り用の容器をもらい、皿からパックに移し替えている最中、母の携帯電話が鳴った。母は席を外す際、テーブルに置かれた請求書をさっとハルの方へ押しやった。支払っておけと云うのだ。これもいつものことだった。ここ数年、母と外食をした際の食事代は全てハルの負担になっているのだ。 母がその場からいなくなるとハルの中の張り詰めていた神経が弛緩し、どっと疲れが湧き出てきた。無性に煙草が吸いたくなってくる。 恐らく母は今日泊まるつもりなのだ。部屋に着けば、客用の布団の用意がないことをあれこれ云われるに違いない。部屋を勝手に掃除し始めるのも容易に想像できた。 「あの」 声をかけられてはっとした。スーズがそこにいたのをハルは忘れかけていた。 「あ・・・何?」 「すみません、私はそろそろ。お母様が戻られたら失礼しますね」 「ああ」 ハルは了解して手許の料理に視線を落とした。 「何なら先に帰って構わない。またあの人に捕まると面倒だぞ」 「そういうわけには。挨拶だけはして帰ります」 そう云うとスーズは黙々と料理を簡易容器に移し替えているハルの手許をしばらく眺めていた。彼に見られているのが分かっていたので、ハルは真鍮の箸を置いて容器に蓋をし、ビニール袋に詰めた。好きでもない紹興酒を一口呑んだところで何気ない風に顔を上げる。すぐにスーズと眼が合った。彼は眼が合うのを待っていたようだった。 「何?」 「いえ、お疲れのご様子なので。すみません、私、こういう場でも気の利いた話題一つ提供できなくて」 意外だった。敵のはずのスーズの柔らかい物云いに、ハルの感情が少し和んだ。 「別にいいよ、そんなの。けど何で来たの?楽しくお喋りできるとでも思ってた?」 スーズは顔は動かさないまま視線だけを少し彷徨わせた。彼は母が頼んだウーロンハイを礼儀として半分ほど口をつけていたが、それ以上はもう呑む気はなさそうだった。 「興味本位です」 「一つだけ教えてやる。会って三十秒で食事に誘って来るような大人には興味本位でついて行くな。絶対に有意義な時間は過ごせない。それが恋敵の母親であれば尚更だ」 「親の顔が見てみたいってよく云うじゃないですか。あなたと話してる時、正にずっとそう思っていたんです。だからまさか今日、本当に親御さんに会えるなんてびっくりして」 「それで、これならあのいかれた男の親ってのも頷けるって思っただろ?」 怒りもせずに半ば諦めきった笑いを込めてハルはそう云った。 「大丈夫。これに関してはそう思われて仕方ないって分かってる。昔っから同級生達には『お前の母親、何かすげーよな』ってよく云われてたよ。すげーって、純粋な褒め言葉じゃない。分かる?出しゃばりすぎ、喋りすぎってあの人にはいつも後から注意してるんだけど、本人に自覚がないから決まって怒り出すんだ。基本、俺が何云っても聞かない人だから」 スーズはそれを聞くと少しだけ微笑んだ。僅かに憐憫の色が垣間見える。彼の本音に近い表情だと分かった。初めて彼の態度に血の通った温度を感じた。 いつものハルなら相手の表情や仕草の裏を読もうとするのだが、今夜は神経が疲弊していたのでそんな考えには行き着かなかった。 スーズは一見、大人しくて従順な青年に見える。母の好きなタイプだ。 正直云うとスーズが帰らないでくれて助かったところもあった。母はほぼ彼に向かって喋っていたので、ひたすらこき下ろされて恥はかいたものの、ハル自身は直接母の攻撃の的にならずに済んでいたのだ。母と一対一で向き合うのがハルは最も辛い。今日受けたハルのダメージはこれでもまだましな方だ。だがその分、スーズには負担を強いてしまった。こんな時間が彼にとって面白いはずがなかった。 罪悪感と疲労感からハルはスーズの顔をじっと見ていた。スーズはスケジュールでも確認しているのか、手帳を開いてその上で何か書いていたが、ハルの視線に気づき不思議そうに顔を傾げた。 「何です?」 「別に」 母のどうしようもない会話にあれだけ付き合える人間はなかなかいない。よく途中で席を立たなかったものだと思う。侮れない雰囲気があるとは思っていたが、その辺の新入社員より余程頼もしいと感じた。 それから間もなくしてハルの母は戻って来た。スーズは席を立つと、彼女に対しそつのない態度で別れの挨拶を済ませた。その後でハルの方へ向き直った。 「それじゃあ、失礼します。またレッスンで」 肩に鞄をかけ直し、ごく自然な動作でスーズは手を差し出してきた。 握手を求められたことに微かな違和感を覚えたおのの、彼を早く帰してやりたいこともあってハルは間を置かずに応じた。楚々とした様子でスーズはその場から立ち去った。 ハルの手の中に、細い紙切れが一枚残った。 「ねえ、あの子顔はいいけど髪がちょっと長すぎじゃない?もう少し切った方がさっぱりすると思うわ」 母の言葉を無視し、帰り支度をしながら彼女に見つからないよう、掌の中の紙を確認する。指先で端の折れを直した。そこには電話番号が書かれていた。

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