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第33話
帰宅直後、母の文句が始まる前に近くのコンビニへ行って来ると告げてハルは外へ出た。
携帯電話に付箋に書かれた番号を打ち込み、かけてみる。
スーズは出なかった。タイミングが合わなかっただけなのだろうが、何だよ、と面白くない気分になった。
母に買う物があると云って出て来た以上、手ぶらで帰るわけにもいかず仕方なく煙草とゲルインクのペンを購入して帰路についた。
ハルの部屋は二階で、このフラットは二階建てだ。当然エレベーターはない。十分ほど前、母は早くこんなところは引っ越して、もっとしっかりした鉄筋のマンションに住めと不満を漏らしながらこの階段を上っていた。
今日はともかく休日である明日のことを考えると気が重かった。明日一日母に振り回されることは間違いない。早く帰ってもらうためにも、日曜日については前もって休日出勤があると云ってしまおう。
その時、スーズの方から折り返しの電話がかかってきた。もう部屋の玄関扉はすぐそこで、いつものように早足で歩いていたらとっくに室内へ入っていた頃だ。母の詮索を受けたくないハルは、反射的に踵を返した。着信音を切る目的で即座に通話の表示に触れる。直後に、しまった、と思った。もう少し余裕をもって電話に出れば良かった。
「出るの、早くないですか?」
笑いを抑えたようなスーズの声が聞こえてきた。
「たまたま携帯見てたんだよ」
階段を下りながらハルは嘆息する。
「すみません、お待たせしてしまって」
「別に待ってないし」
むきになってはいけないという思いから、ちょっと冷たすぎる声色になってしまった。
「・・・今、電話して平気なの?」
取り繕うためにそう訊ねる。相手は平気だから電話してきてるに違いないのに意味のない質問だ。
「ええ、今寮に着いたところです。同室の学生がいるので今は外で会話していますが」
「寮?」
「はい。大学の敷地内に留学生専用のドミトリーがあってそこに住んでるんです。充分な広さがあって同室の学生とも仲は良いんですけど、やっぱり電話する時は基本外に出ますね」
社会人二年目まで実家暮らしだったハルは自分には縁のない寮、という響きを単純に羨ましく思った。
一時的なものかも知れないが、先程の帰り際に引き続き、スーズの声には敵意が感じられない。理由は分からないが、食事代を支払ったことに多少恩義を感じているのかも知れなかった。
「・・・そう云えば大学って、お前何の勉強してるの?」
「臨床心理学です。面白いですよ」
「心理学?何それ、だったら何で英語なんか習いに来てるの?趣味?」
「どの分野でも世に出される論文というのは大体英語で書かれるものですからね。自分の国の言葉に翻訳されるのを待っていたら遅れが生じます。私があの語学教室でとっているのは三か月の短期集中コースで、ここの大学で知り合った学生に勧められて入会したんですよ。この国にいる間は英語の勉強が滞ると思っていたので、紹介してもらえてとても助かりました」
フラットの外は禁煙だが、ハルは煙草を取り出して咥えた。母がいる以上部屋の中では吸えない。
「ふうん。英語はあくまで手段、ってやつ?意識高いねえ」
ハルはそう云った自分の声が心底嫌になった。若いスーズに嫉妬していた。彼が持つ人生の可能性に水を差そうとした。
「あなただって、あの語学教室に入会したんですから何かしら志がおありなんでしょう?」
火を点けようとした手をハルは止めた。スーズにそんなつもりは全くないのだろうが、ハルは何だか叱られた気分になった。母の言葉は痛手を与えるだけでちっとも心に響かないが、スーズのこの言葉には内省的にならざるを得なかった。自分の力で人生を変えるために勉強しようと一念発起してあの語学教室に大金を支払ったのに、一体今の自分は何をやっているのか。
「・・・そういやお前、何か用事があったんじゃないの?」
「ああ、はい。ちょっとあなたときちんとお話をしたいと思ったので。お忙しいところすみませんが、近々三十分ほどお時間を頂けませんか?なるべく早い方がいいんですが」
「三十分?いいけど何?」
「アールのことです。詳しいことは後日お話します。その時は例の飾りを忘れずに持って来て下さいね。今日は受け取るタイミングを逃してしまったので」
実は今日、ハルはスーズのピンバッジを持って行かなかった。スーズはアールと別れたと云ってきたが確固たる証拠などない。そのため、数日間は彼等の様子を見るつもりだった。今日は土壇場で約束を破ってスーズを揶揄 ってやるつもりだったのだ。だが今度会った時彼に対してそうする気なのか訊かれれば、今は少し迷いが生じる。
二人は明後日の日曜日に会う約束をした。
「それじゃあ二時半に駅のカフェで」
会う約束がまとまると、さりげなくスーズが電話を切り上げようとする気配がした。
「あ」
「はい?」
ハルは用もないのに別れの挨拶を引き延ばした。何故そんなことをしたのか自分でもよく分からない。こういう個人的な電話をするのが久しぶりだったからだろうか。学生時代の友人達とは気の置けない会話ができるが、結婚式などのイベントがない限り普段は連絡を取り合うこともない。母が居座っている自分の部屋に戻りたくないというのもあった。学生時代、自宅で電話をしているといつも母は何となく近くにやって来た。会話の内容を聞かれるのが嫌で、リラックスして飽きるほど電話で喋ったことなどなかった。どうして今、こんなに寂しいのかハルは自分が分からない。
「あの、この番号ってさ」
「ああ、レンタルサービスで借りている携帯の番号です。帰国するまではこの番号で連絡が取れますので」
なるほど。いずれ手放す番号だから自分のような相手にも気兼ねなく教えたわけか。
事情を知ってハルはまた何となく不貞腐れた気分になった。
「いつでも電話してきていいですよ。折り返しは必ずしますので」
スーズは軽口を云っている風だった。
「お前にわざわざ電話する用事なんかねえよ」
「遠慮なさらず」
突慳貪 な物云いをしたにも関わらず、何故かスーズの声色は穏やかだった。肩透かしを喰らった気分のハルは何だか自分が恥ずかしくなった。
「あ、思い出した。お前、拾った名刺返せよ」
「ええ、ちゃんと持っていますよ。今度あなたが暴力に訴えた時は会社の方に連絡を取りますので宜しく。その後でネット上にあることないこと書いて晒します」
「ふざけるな。名刺はおもちゃじゃないんだぞ」
スーズは笑い声を立てた。そしてすぐに、冗談ですよ、と返してきた。
今日の食事の際の彼の功労を考えても、自分はこの学生に対してもう少し柔らかい態度で接しても罰は当たらないのではないか。そう考えたがこの時は一言しか思いつかなかった。
「今日はお疲れ」
相手の様子を窺いながら発した一言だった。
「はい、お疲れ様でした。明日も頑張って下さいね」
その言葉に対しても何か云うべきかとも思ったが、一瞬の逡巡の後、ハルは自分の方から通話を切った。
秋が冬を本格的に迎え入れようとしている気配を夜の空気から感じる。ハルははっきりとした寒さを感じてもう一度フラットの階段を上り始めた。
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