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第35話

「え、何でこの席なの?」 勉強をしているのか、手許の本に集中しているスーズにハルは近づいて行って挨拶もなしに訊ねた。半ば驚かせようと思っていきなり声をかけたのだが、スーズはちょっと眼を瞠っただけで、 「あ、こんにちは」 と至極冷静に挨拶をしてきた。 食事時を過ぎた店内は、軽食を摂る客達の姿ももうまばらでいくらでも余裕のある席が取れる。テラス席にいる必要はないように思われた。 「勉強するなら中の席がいくらでも空いてるのに。寒くないわけ?」 「私の故郷に較べたら全然ましです。向こうの十月の最高気温は一桁ですから。それに少しぐらい寒い方が集中できるんです。珈琲も美味しく感じますし」 「ここの珈琲はわざわざ寒い思いしなくたって美味(うま)いよ」 「あなたが店内の方が良いと仰るなら移動しますけど」 アールのことで会うと決めた今日、自分達にはまたあの敵意を含んだ関係が戻ってきてしまうとハルは思っていた。だが今日のスーズの態度にも、冷たさや鋭さは含まれていなかった。ほんの僅かではあるが親しみさえ籠もっている気がした。知り合った時の真顔の印象が強いだけに、表情に柔らかさが宿ると微かでもそれが分かる。 「いや、ここでいいよ」 珈琲を買って来ると云ってハルは一旦その場を離れた。荷物を置くために掴んだテラス席の椅子は冷たかった。 ハルが戻って来たところでスーズは本を閉じて脇へ置き、肩の前にきていた髪をさっと背中の方へ払った。彼にとっては何ということもない仕草なのだろうが、指先が艶のある髪を梳いた時にきらりと見えた銀輪のピアスが眼を惹いた。髪の短いハルにはできない仕草だ。 「お母様はもう帰られたんですか?」 「うん。やっとな」 大袈裟ではなく本当に長く感じられた。極限まで心を無にした一日だった。はっきり云って仕事の方が数倍ましだった。休日出勤は手当が出るが、母といて神経をすり減らしても一銭にもならない。食事の量が増えた所為で、若干食傷気味だった。電車の改札口で母を見送った際、母の姿が雑踏に消えた途端に、どっと疲れが押し寄せてくるのが分かった。 「元気なお母様をお持ちですね。一昨日は本当にありがとうございました」 「いや、こっちこそ付き合わせて悪かった。ほぼあの人の独壇場だったっていうか」 「いえ、会話を切り出すのも繋げるのも私はあまり得意じゃないので、お母様がたくさん話して下さって助かりました」 ハルは少し笑ってから珈琲を一口飲んだ。 「最初は良くてもあれが毎日だと神経がやられるぞ。しかもうちには妹がいるからな。うちの女二人が揃うとそりゃあもう大変だ。そうなったら流石のお前でも頭痛がするはずだよ」 「ああ、妹さんのことはお母様も話して下さいましたよ。もうご結婚されて、都心のコンドミニアムにお住まいなんですよね」 「そんな話してたのか」 今年二十五歳になるハルの妹は結婚一年目の専業主婦だ。夫の収入だけで贅沢な暮らしができるのをいいことに、結婚と同時にさっさと仕事を辞め、今ではほとんど遊んで暮らしている。既婚者だとか妻だとか、そういった役割に縛られるのは嫌だと云って憚らず、未だに学生のような身形や振る舞いをしている。有名企業の社員でそこそこ顔も性格もいい男が、どうして妹のような女を選んだのか、全く世の中というのは不思議に満ち溢れているとハルは思った。 「時々あの人はああやって思い立ったように暮らしぶりを見に来るんだよ。ひと月に一回電話してるんだから充分だと思うけど」 「きっと妹さんも家を出られたからお一人で寂しいんでしょう」 「は、だとしてもどうしようもないけどな。俺はもう実家に戻る気はないし。ああいう人と一緒に生活するってのは大変なんだよ」 「でしょうね。分かります」 どこかその言葉には確然とした響きがあり、ハルは何となくそれが気にかかった。 「ほんと?分かる?」 「はい。あなたとお母様は反りが合わないというのが見ていて分かりました。あなたは無理してあの場に坐っていたんですよね」 云いにくいことをあえて云った後にその場に宿る一瞬の緊張を、二人ともが感じ取っていた。 「よく分かったな」 どうしてなのかハルは笑ってしまった。 「誰だって分かると思いますよ。私のような外国人でもね」 引き続きここは笑うべきところなのかとハルは思ったが、スーズの表情を見る限りそういった反応は期待していないようだった。

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