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第36話

それ以上何と云っていいか分からずハルは黙っていた。いい歳をしてあまり母親の話ばかりしたくなかった。 「それより今日は、アールのことで話があるんだろ?」 「・・・そうでしたね」 ハルがそう訊ねると、スーズは眼を伏せ珈琲に手をつけて一呼吸置いた。 「あなた、最初に私に云いましたよね。アールが遊びで自分と付き合っているのは分かっていると」 「うん、云ったよ」 浮薄な返事をするハルに対し、スーズはその表情を見ながらしばらく間を置いた。誤魔化しの利かない視線だった。 「あなたはいつか彼が自分に本気になってくれると思ってるんですか?」 「どうだろ。そういう可能性もゼロじゃないんじゃない?けど、今みたいな関係だから逆に成り立ってるのかも知れないし」 「愛してるんですか?」 「何それ?」 ハルは笑ってしまった。 「好きじゃなかったら一緒に寝たりしないだろ」 「本当にその程度なんですか」 「その程度って何だよ」 笑いながらもやや相手を牽制する気配を込めてハルはそう云った。 「そうだな、本当なら俺は毎日でもあいつに会いたいよ。セックスがたくさんできるならその方がいいから。でもそう思ってるのは俺だけじゃない。仕方ないよな。人気者はみんなでシェアしなきゃ。でも、独り占めできるならそうしたいよ?」 スーズはハルの表情を窺うように見ていた。自分の言葉が彼の質問への答えになっていないことはハルも承知していた。 ハルは袖を捲って珈琲カップを掴んだ。新しいワイドアームのオーバーニットを着てきたことを後悔していた。柔らかい肌触りとワインレッドのカラーに惹かれて購入したが、ハルには袖が長すぎたのだ。 「アールには本命の女性がいますよね。しかもその方と結婚を控えてる」 ハルはスーズと眼を合わせた後で少し笑った。 それしかできなかったから。本当は眼の前の学生が発した言葉に一瞬思考を奪われていた。 「火曜の夜、私がアールのフラットに着いた時、誰が彼の部屋から出て来たと思います?」 「何?誰?」 「恋人の女性です。こざっぱりとした、感じの良い人でしたよ。どうやらアールの部屋に忘れ物を取りに来たらしくて、ちょうど玄関先で鉢合わせになったんです。出張前だから急いでるということと、これから一度自分の家に戻ってから出張先に向かう、というようなことを云っていました」 「それでお前どうしたの?」 「語学教室の生徒で友人だと挨拶しましたよ。それ以外に云いようがないでしょう」 スーズの髪は染めた形跡のない天然の黒だった。瞳も黒だったが、それよりも髪色の方がやや淡かった。この国の生まれだという母親の方の血を多く継いだのだろう。自分ももう少し母親似だったら、母の自分に対する扱いは何か違っていただろうか。 正面から吹いてきた風を受けてハルの体に悪寒が走った。連日、母といたことで疲れているのが少しぼうっとする。 「去り際、彼女はアールに頼みごとをしていたんです。招待状に貼る切手を買っておいて欲しい、それと土曜の午前中に戻るからドレスの試着には間に合う。式場で待ち合わせしよう。それで全部分かりました」 ハルは後半、込み上げてくる笑いを抑えきれず腕組みをした状態で体を震わせていた。 「何笑ってるんですか」 「なかなかいないぞ。そんな場面に鉢合わせるって。でもそうか、その女に会ったのか。俺も一度見てみたいとは思ってたんだけど」 スーズは怪訝な眼でハルを見つめていたが、やがて視線を逸らした。 「あなたはいつから知っていたんですか?」 「何を?」 「彼女の存在です」 「毎週部屋に行ってれば定期的に女が来てることぐらい分かる。直接アールから云われたことはないけどな。ええと、最初に気づいたのはいつだったっけか」 硬いアイアンの背もたれに背中をつけて、少しの間ハルは自分の手許を見ていた。 「そうだ、あれは確か雨の日の翌日だったな。前日は土砂降りで、ほら、お前を突き飛ばしたあの日みたいにひどい降りだったんだよ。でもその翌日の水曜日は、朝から晴れてた」 アールの部屋は一階で、敷地内には植物が多い。その時期は立葵や凌霄花が花をつけていて、その近くではまだ実の青いインクベリーが存在感を増し始めていた。既に花の時期を終えた鬱金桜の葉や幹から、充分に雨を吸い込んだ気配を感じる夜だった。その夜闇に冴え冴えと映えたライラックの花柄をハルは今でも憶えている。 「あいつの部屋に行った時、玄関先で女物の傘を見つけた。お前が会ったその女の忘れ物だろ。手許部分だけが花柄で、生地は紫の無地だったな。確か金色のチャームがついていて・・・あ、でも待て。それとも、アールとの付き合いが始まってしばらくした頃だったかな。灰皿の中に口紅のついた煙草を一本見つけた。それが最初だったかも知れない。もしかしたら砕けたファンデーションの欠片をごみ箱の中で見つけたのが先だったか。いや、捨てられてたのは赤いマニキュアが塗られた爪だったかな。生理痛専用薬のパッケージがキッチンカウンターに放置されてたこともあったし、もうどれが最初だったかなんて、憶えてない」 洗面台に置かれた歯ブラシや化粧水などで他の恋人の存在を知るというのがベタなシチューエーションとしてあるが、アールの部屋にそういったものが取り残されていたことは一度もない。ヘアスタイルはショートカットなのか、長い髪が落ちているのも見かけたこともなければ、洋服に関してもストッキング一本脱ぎっぱなしになっていたことはない。ただ一度だけ、丸めた仕事のメモらしきものをハルは拾って読んだことがある。 九時ー報告会 十一時ーO社プレゼン 十二時半ーランチミーティング 十六時ー空港 走り書きに近いこのメモを見て想像できたのは、アールの彼女はなかなかのビジネスウーマンということだった。

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