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第37話

「あいつは俺の持ち物を一切置いて行かせない。吸殻一つ残すのも許さない。でも女の痕跡だけは今云ったみたいにたまにあの部屋に残ってる。それで分かった。あの男の本命はこの女だって」 ハルは手許の珈琲の水面を見ていた。スーズの表情を見ながら話す自信はなかった。そして意味もなく項の上あたりに手をまわしてそのあたりを擦った。 「だってあの男がそんなにうっかりしてるわけないだろ?あいつはわざと女の痕跡を消さないんだ。俺みたいな遊びの人間に対する無言の牽制だよ。傘でも薬でも、俺があの部屋に置いて行ったら確実に捨てられてる。でも、あの女の所持品はそうしない。その女だけが特別だっていうのはそれだけで充分分かる」 やっと顔を上げることができた。スーズの黒い瞳は黒曜石を彷彿とさせた。もっと近くで見たら、その黒い輝きの底に落ちていくような感覚に襲われるんじゃないだろうか。 「結婚のことはいつ知ったんですか?」 「それだけは今、お前に云われて知った」 黒曜石の瞳が硬直した。彼は一体どういう気持ちでいるのだろうとハルは考える。とりあえず、自分を嘲笑おうというつもりはないらしい。今度はスーズの方が自分のカップに触れて、その水面を見つめる番だった。 「挙式は一月だそうです」 「そうか」 「ひどいですね。もう残り二か月だっていうのに、あなたに対して何も云わないなんて」 「同情してくれるのか。ありがとう」 スーズがそんな風に云ってくれるとは思っていなかったので、ハルは意外だという表情を隠さずにそう云った。 「恋人がいるのにあなたのような相手をつくる時点でまずあの男は碌でもないですが、ましてや結婚が差し迫ってるなら身辺整理ぐらいはするべきですよ。どんな相手にも、心の準備ってものがある」 「俺の心の準備ってこと?」 「そうですよ。仮にも週に一度体の関係を繰り返した仲ですよ。あなたに好かれてることをあの人は自覚してるのに。いつあなたに知らせる気なんだって私は訊いたんです。そしたら、何でそんなことをあいつごときに云わなきゃならないんだ?要らなくなった時に捨てればいいだろう、って。本気でそんな必要はないと思っているみたいでした」 「俺の話したの?」 「ええ、この話を聞いてショックなのは私よりあなたの方でしょう?正直云ってあなたに命令されてアールに別れ話を持ちかけるのは不満でした。でも彼女のことや結婚の話を知ることができて良かった。アールの言葉を聞いた瞬間、掴みかかりたくなりましたよ。人の気持ちってそんないい加減なものじゃないってことぐらい私にだって分かります」 ここまで聞いてハルはこの男の態度を不可解に思った。スーズの言葉には何となくハルの味方につくような雰囲気があったからだ。そんなにこの男に情を移される覚えはない。金曜日にした食事の後ならまだ少し分かる気もするが、スーズは火曜に話をしたと云っている。その時はまだ、自分達の間には緊張と嫌悪が息づいていたはずだった。 「前にも云いましたけど、私に声をかけてきたのはアールの方だったんです。その時は特定の恋人はつくらない主義の人なのかと思っていました。まさか婚約者がいたなんて。知ってたらあんな付き合いはしませんでした。私も見る目がなかったと思いますけど、結婚式を二か月後に控えている人間が普通そんな誘いをかけて来ますか?人としてあるべきものが欠如してるとしか思えません。当然アールにはその場で別れを告げて来ました」 スーズはそう云いきってから視線を上げた。 「あなたは怒らないんですね。私の話なんて信じられませんか?」 「いや、信じてる。あいつから離れてくれて嬉しいよ」 ハルのその言葉をスーズは不審そうに聞いていた。 「あの人は結婚と同時に引っ越しも控えてます。彼の今の部屋は語学教室を運営している会社が借り上げている社員寮だそうですから、結婚後は引っ越すはずです。大人二人で生活するには手狭でしょうしね。あなたも彼と別れる心の準備はしておいた方がいいですよ。私からこの話を聞いたと云って構いません。来週にでも話をしたらいいと思います」 ハルは無言で珈琲に口をつけた。 「本当はもう二度と会わないことをお勧めしたいぐらいなんですが」 「何で?」 「はい?」 「何で今すぐ別れる必要があるんだ?二か月後だろ?まだ時間はあるじゃないか」 ほんの僅かに間が空いた。 「何云ってるんです?」 「俺から別れる気はないよ」 ハルはまた袖を捲ってカップを置いた。やはりこの服は失敗だ。 「あなた、私の話聞いてました?」 「聞いてたよ」 「あの人があなたのことをどう思ってるか分かったでしょう?本気で要らなくなったら捨てていいモノか何かみたいに思ってるんですよ」 「そんなこと前から知ってた。お前は何も分かってない」 ハルは云いきった。 「でも分かる必要もない。ただ、正論を通したいなら一人でやれ。俺には関係ない。でも、お前がアールと別れてくれたことには感謝する。ありがとう。・・・珈琲代と電車代だ」 ハルは傍らに置いていた上着のポケットから財布を取り出し、紙幣を一枚テーブルの上に置いた。

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