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第38話
ハルの帰ろうとする気配を察したスーズは、
「待って下さい」
と、少し焦りを含んだ声で云った。ハルは財布を元通りしまって、テーブルの上にあったレシートをくしゃっと丸めた。
「お前の大事なものなら水曜のレッスンの時に持って来る。今日は家に忘れて来たんだ」
嘘だった。悩んだ末にやはり保険をかけておこうとわざとあのピンバッジを置いて来たのだった。約束破りどころか、スーズがアールにとった廉潔な行動に照らして考えれば自分の卑しい根性にはほとほと嫌気が差す。
「そうじゃなくて」
ハルはスーズをちらっと見上げてから軽く息を吐いた。
「ああそうか、もうアールには会いたくないんだったな。今後水曜のレッスンに来る気がないなら、お前から暇な時連絡して来い。適当なところで待ち合わせして返すから。悪いけどカップ、返しといてよ」
そう云って最後に温くなった珈琲を一口飲み、隣の椅子に置いていた荷物に手を伸ばした。テラス席のテーブルは円形で椅子は三脚あり、ハルはスーズとの間にある空席に自分の鞄を置いていた。
そこに伸ばしたハルの手をスーズは上から押さえつけてきた。
「最後まで何も知らないふりを通してただ捨てられるのを待つつもりですか?それに一体何の意味があるんです?」
「お前には関係ないだろ。何でそんなに熱くなっ てんだよ?怖いんだけど」
スーズは手を退けようとはしなかった。息を詰めた様子でハルを見つめてくる。
「私はこういうことが許せないんです。もちろんアールが一番悪い。でも本命の彼女の存在を知っていながら彼と体の関係を続けていたあなたも加害者です」
「何とでも云えよ」
「結婚の話を聞かされていなかったことには同情します。急にこんなことを聞いても気持ちが追いついて行かないのも分かります。でも、もういいんじゃないですか?あなたもいい大人なんですから分別を持って下さい。一体あの男のどこがそんなに良いって云うんですか?こんな言葉、遣う日が来るとは思ってませんでしたけど、下種 ってやつですよ」
スーズの云う通りだったが、だからといって今ここでアールに二度と会わないとは断言できなかった。スーズがもたらした情報は、ハルにそれなりの衝撃を与えた。正直云って冷や水を浴びせられた気分だった。けれど、アールが直接自分に別れを持ち出して来ない限り、ハルに彼の元を離れる気などない。自分の方で何か変えるつもりなど、ハルには微塵もない。水曜日の夜に抱き締められた時、自分がどれほど満たされるか、この男には分からない。
ハルが俯いていると、スーズは今気づいたという風にハルの手の上から自分の右手を退けた。若干気まずそうにしていた。
「あいつが俺をモノ扱いしようが、他の誰と結婚しようがどうでもいい。ただ、あいつと水曜日に会えれば構わない」
それを聞いてスーズに混乱した表情が浮かんだ。
「信じられない。どうしてそんな相手と付き合えるんですか?」
「あいつは」
ハルは云いかけてやめた。アールのことを分かっているのは自分だけでいい。
「俺は、誰かとセックスしないと生きていけないからだよ」
軽薄な調子を取り戻したつもりだったが、うまく笑えていたかは分からない。
「アールはあなたとの関係がどうやって始まったか私に話してきましたよ」
「え?」
「最初にあなたが彼と関係をもった日のことです。ほとんど無理矢理だったらしいじゃないですか。あの人、そのことを笑って私に話してきたんですよ」
刹那、ハルは凍りついた。スーズの黒い眼の中に落ちて、周囲が真っ暗闇になった気がした。
「・・・それは云いすぎだ。何も期待してなかったら、俺だってあいつについて行ったりしなかった」
「でも、泣いていたんでしょう?」
「何を聞いたか知らないけど、確かに最初は怖かった。それは認める。でも考えてみろよ。相手はあのアールだぞ。多少強引にでも手に入れたいって思われたと考えれば悪い気はしない。俺の体だって捨てたもんじゃないだろ」
「寂しい人ですね」
その言葉がハルの呼吸を止めた。スーズに弱みを見せないために、自分を守るために、この世の中の波長に合わせるために、ずっと笑っていたかったが、もう無理だった。
スーズはしばらく探るような眼でハルを見ていたが、遂に視線を逸らした。
「私も偉そうなことは云えませんが。私もアールの誘いに応じたのは寂しかったからです」
思わずハルは眼の前の男の発言に眼を瞠った。彼の言葉とは思えなかった。
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