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第40話
「・・・私は臨床心理士を目指していますが、特に児童心理学や教育心理学に関心があるんです。子供が好きなので。親とうまくいっていない子供がどういう問題を抱えるか色々なケースを学んできました。だから、あなたのような人を黙って見過ごせないんです」
「勉強熱心なのと、他人のプライバシーを侵害することは違う」
頭痛がする。苛立ちと煩わしさからハルは次第に混乱してきていた。これが錯乱に変わる前に自分はここから立ち去らなければならない。けれど何も云い返さずに相手の前から逃げるというのは性に合わない。
ハルは意地悪く笑みを浮かべた。
「心理学か。それでアールとの関係や俺の母親を見て、親切に分析して同情してくれてるってわけ?本当に真面目な人間なんだな。ここまでお節介を焼いてくれるなんて。人助けのつもりか?頼んでもいないのに」
「同情、なんかじゃありません」
「じゃあ何?俺を患者に仕立て上げたいのか?俺、そんなにおかしい?」
「あなたはおかしくない。ただ、不安定なところに身を置こうとするのは見ていられない。アールは、あの人はどう考えても付き合うべき人間じゃない。現にレッスンの時も、私の前であなたに何度も理不尽なプレッシャーを与えていたじゃないですか。自分を好きでいてくれている人間を人前で攻撃したり、恥をかかせて自信を失わせるなんて普通はできません。遊び相手だからって無闇に傷つけていいわけないですし、第一、講師のやることじゃない」
うるさい。
これ以上分かった風な口をきくな。中に入り込むな。
二十分ほど前ここに来た時の穏やかな気持ちは何処かへ消えてしまっていた。
ここにきてスーズとの関係に少し期待をしていた自分に気づいて、ハルは自分を莫迦だと思った。仄かに温かみが差した二人の関係はこれで終わりを迎えそうだった。そもそも全く相容れないとろこから自分達の関係は始まっている。
「いいから、カップを返しとけって云っただろ。もう俺に構うな」
「差し出がましいことを云っているのは承知です。でも怒って話の方向性を見失わないで下さい。今のままで自分が幸せになれると思いますか?」
ハルはその場に棒立ちになった。
幸せ?
自分の幸せ。
そんなのは考えたこともなかった。
云うなれば自分の人生はこれまで逃げることだけだった。一日一日を乗りきって、逃げきることができれば勝ちだった。
ハルの最初の記憶は英語から逃れたいというものだった。そしてそのうち家から、母から逃れたいと願う自分に気づいた。学校や家を追われた惨めさから、友達を失った寂しさから逃れたいとも思った時期もあった。ただで優しくしてくれるような良い相手と巡り合うと居心地が悪くて、何かにつけて見返りを求めてくる相手ばかりと付き合ってしまう、そんな自分の性 から逃げたかった。そして何より、いつからか体の片隅に居座っている黒く冷たい孤独から逃げたかった。
油断すると、一人でいると、すぐあの暗闇と冷気に呑み込まれてしまう。
眼の前の相手を満足させることに必死になっていれば、気を紛らわすために誰かにしがみついていればそれは追って来ない。
けれどその代わり、ハルは自分が欲しいものや手放してはいけないものが何なのか、よく分からなくなってきた。でも、それでも逃げ続ける以外にどうしようもなかったのだ。
「漫画か何かに出て来る正義の味方なら、どこまでも誰かのために犠牲にならなきゃいけません。でもあなたは違う。自分を大事にしないといけない」
自分の顔色を窺うようなスーズの表情が眼に入って、こんな若者に振り回されるわけにはいかないとハルは思う。ただ、少し息苦しくなってきた。
「・・・とにかくいいんだよ。あいつには、アールには、助けられてる」
「フェアじゃない。あなただってアールを助けているのに、一方的に虐げられてばかりで」
「フェアでいられるわけない。俺があいつにしがみついてるんだから。あいつは俺なんかいなくたって全然平気なんだよ」
「そう思います?あの人も大概孤独な人ですよ。私は同情しませんけどね」
その言葉にハルは虚を衝かれた。
「アールが孤独なわけないだろ。たとえ俺やお前がいなくなったって、一緒に寝てくれる相手は五秒で見つかる」
「ええ、あの見た目ですから確かに人は寄って来るでしょうね。経験だけなら豊富でしょう。でもあれじゃ長続きしない。精々もって三、四回といったところでしょう。あの人、寝台 の中ではまあまあすごいですけど、普通に付き合ったらつまらない人ですよ」
どきっとした。
「は、何云ってる?」
「あの人は自分のルールを押しつけてくる時や、あなたの悪口なんかはよく私に話してきましたけど、自分のことについては一切打ち明けてくれなかった。人間ていうのは何の感情表現もしなければ意見交換もできない相手と一緒にいたいとは思わないものです。ああいうコミュニケーションしか取れないなんて可哀想ですよね」
「あいつのことをそんな風に云うな」
「あなただって彼のことをどれだけ知ってるんです?彼の出身地や学校の話、趣味なんかの話は聞いたことあります?語学教室の同僚のことは?」
ハルは口を噤んだ。
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