41 / 100
第41話
「婚約者の女性を除けば、恐らく彼と関係が長く続いているのは、あなただけです。アールがあなたをあれだけ貶しつつも本気で捨てないのは、あなたがいなくなったら困るからですよ。あなたが碌でもない扱いを文句云わずに受け入れてくれる自己犠牲に溢れた人だから」
スーズはじっとハルを見つめていた。詰 られることを覚悟している眼だった。
「今のままだとあなたは確実に彼を増長させていくだけですよ。それに、あなたのお母様も」
また母。母のことは考えたくなかった。昨日やっと離れられたと思ったのに。
スーズは自分の弱さだけでなく、アールの弱さまで見透かしている。彼は注射針で血管を刺すような的確さでハルの弱点を突いてきた。
こういう敏感さは一種の才能かも知れないが、この青年はその使い所を間違えている。自分の内面の弱さや葛藤に気づかないふりをして生きていきたい人間だっているのだ。間違っていることが分かっていたって、本当に溺れて息絶える寸前までその沼に嵌まっていたい人間だっているのだ。そのことを分かっていない。
「・・・あの人の話はしたくない」
「お母様のことですか。親子みたいな逃げられない関係はつらいですよね。自分が悪いんじゃないかって、いつも子供は思う」
「だからもうやめろ」
「愛を盾に迫って来る呪いみたいなものだ」
本気で逃げ出そうとした瞬間、吐き気がして思わず顔を背けた。先程からずっと眩暈がしていたがひどくなってきた。腕や手に、何故か痺れた感覚があり、寒いはずなのに服の下の汗をかいていた。この場から駆け出したかったが、走るどころか真っ直ぐ歩ける気すらしない。
吐き気を堪えて口許に手を当て続けているハルにスーズは表情を変えて、
「どうしたんですか?」
と訊ねてきた。
「・・・吐きそう」
思わずハルはそう漏らした。
「え?大丈夫ですか?」
大丈夫なんかじゃない。胃が絞られるような感覚に襲われていて、先刻 飲んだ珈琲を全部吐いてしまいそうだった。肩にかけていた鞄が滑り落ちて曲げていた肘のあたりで止まった。全く動けないでいるのに、動悸がして苦しかった。
まだ。まだ何とか吐かずにいられる。歩ける。走るのは無理だがとにかくこの学生を振り切らなければ。
スーズは先程までと百八十度態度を変えて狼狽 えていた。辺りを見廻し、助けを求めるべきか否か、考えているようだった。
この男の所為だ。この学生がおかしなことばかり云うから悪いのだ。
以前、彼には『見るからに執拗 そうだ』と云われたが、執拗いのはお前の方じゃないかとハルは思っていた。
「とりあえず一度、坐りませんか?」
スーズは先程離れたカフェのテラス席の方を振り返った。云いながらハルが持っていた鞄にほんの少しだけ触れた。
「触るな」
ハルは過剰反応して身を引いた。刺すように思いきり睨みつけると、スーズが怯んだのが見てとれた。
「・・・でも、何処かに坐った方が」
スーズの言葉には耳を貸さず、ハルは荷物を肩にかけ直して、眩暈の所為で足許がふらつくのを気取られることのないよう歩き出した。
「待って下さい」
「うるさい、ついて来るな」
「でも、吐きそうだって先刻 」
「お前に色々云われてあんまりにも頭にきたから、ちょっと体がおかしくなってるだけだ。元凶のお前に心配してもらう必要なんかない」
スーズはハルの勢いに気圧されつつも、自分が取るべき正しい対応を必死で考えているようだった。相手が平静を失っていることは分かっているので無闇に刺激したくないという恐れと、はいそうですかとここで無責任に引き下がっていいのかという葛藤があるようで、しばらく黙ってハルの跡をついてきた。眼を合わせなくても、彼が悩んでいるのは気配で伝わってきた。
「私の所為なら、お詫びに送らせて下さい。タクシーに乗りましょう」
決意したようなその声に対し、何を云ってるんだという思いでハルは振り返った。スーズの表情には悩んだ末に自身の直感に頼った者の、踏み留まろうとする気概が感じられた。
「冗談じゃない。知らない人間に家の場所を知られなくない」
云った直後にハルは息を止めた。吐瀉物が込み上げてきそうだった。
「なら近くまででいいんです。ひどいなら病院に行きましょう。どちらにしても今の状態で放っておくなんてできません」
「もう喋るな。お前の声なんか聞きたくない」
スーズの顔色が曇った。痛みを堪える時の顔だとすぐに分かった。ハルの胸にさっと罪悪感が過 った瞬間、矢庭にスーズの手が動いてハルの上膊を掴んできた。そのまま強引に駅下へと続くエスカレーターの方へ引きずって行かれる。
「ちょっと、何?」
スーズは答えなかった。間違いなく無視をしていた。エスカレーターに乗り込む際も、ハルを先に促し、足許にも気を配ってはくれたが二人の間に段差が生じても手を離さない。すぐ前に他の客がいたこともあり、ハルは逃げ出せなかった。スーズに掴まれていない方の手で手すりを掴む。手はまだ痺れていたが、感覚が麻痺しているわけではない。温度の感覚もある。ただ、よく見ると震えていた。思わず掌を握り込んで力を入れる。
ともだちにシェアしよう!