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第42話

エスカレーターを降りきったところのすぐ正面にタクシー乗り場があった。その前まで来たタイミングで、本当はそうでもなかったのだが、 「痛いんだけど」 と云ってハルはスーズの手を振り払った。 「タクシーに乗って下さい。行き先はお任せします。料金は私が払いますから」 「学生の小遣いから支払わせるほど人間できてなくはないよ。それとも何?もしかしてこれ、口説いてるとか?」 タクシーの列に並んでいたすぐ前の客がちらっと後ろにいたハル達を見るのが分かった。その客が乗車するのを待って、ハルは改めてスーズを見据えた。 「分かったようなふりして散々好き勝手云った挙げ句、強引に家にまで押しかけて来ようとするなんてさ、それがお前のやり方なわけ?」 「混乱させてしまってすみません。でも、あなたを助けたかったんです」 莫迦かと思った。この若い男の無知を呪った。心理学専攻だか何だか知らないが、臨床心理士だろうがカウンセラーだろうがなれるものならなってみればいい。夢を掲げて、信念を持って努力して、突き進んで行けばいい。 そして思い知ればいい。 人に人は救えない。 どんなに頭が良くても、どんなに優しくても、たとえ同じ思いをしている人間でも、誰も自分のことなんか救えない。 その時、ロータリーに戻って来たタクシーがハル達の横に進み出て来て扉を開けた。 スーズに眼で促されてもハルは最初、乗ろうとはしなかった。ところがすぐに後方から次の客がやって来てしまい、乗らないのかとハル達を見てくる。タクシーの運転手も同様の目線を投げかけてきた。 スーズはハルより先に車内へ乗り込み、 「すみません、二人です」 と、はっきり運転手にそう告げてしまった。当然車の扉は閉まらない。スーズは奥の席でハルが坐るスペースを空けて待っている。スーズの眼力(めぢから)と後ろの客からの圧に負けて、ハルは仕方なくそのタクシーに乗った。坐ってしまえば、こういう体調で車に乗せてもらえるのはありがたいことだった。疲れと半ばもうどうでもいいという気分から、ハルは自宅の住所を行き先に指定した。 車内では一言も喋らなかった。嘔吐する寸前のような吐き気は治まりつつあったものの、まだ何となくむかむかする。車ならフラットまでは大した距離ではないが、乗り物酔いをしてしまわないかが心配だった。 今日が水曜日なら少しも気分は晴れるのに。 スーズが自分を見ていることが分かったが、ハルは一度も彼の方を見ようとはしなかった。 フラットの敷地前に停車すると、ハルは即座にドアハンドルを引いたが、運転手がロックを解除してからでないとタクシーの扉は開かない。瑣末なことだが今は猛烈に苛立った。 「わざわざありがとう」 皮肉っぽくスーズに云い残してハルは車を降りた。スーズが素早く現金で会計をして続いて下車するのを見てハルはぎょっとした。 「何でお前まで降りるんだよ。そのまま駅まで引き返せばいいだろ」 「私が車を使う必要はありません。ここからなら充分歩いて駅まで戻れますから」 「は、質素倹約ってやつか」 そんなことを云っているうちにタクシーは二人の元から走り去ってしまった。 スーズは歩道からハルの住んでいるフラットを一頻(ひとしき)り眺めて云った。 「お住まいは一階ですか?二階ですか?」 「何でそんなこと訊く?」 「あなたの足許が気になってるんです。先刻(さっき)少しふらついてたでしょう」 「もう大丈夫だよ」 そう云った傍からハルは横合いから走って来た自転車にあわやぶつかりそうになった。自転車側が歩道を走っているにも関わらず減速していなかったのが原因だが、ハルは自分の注意が散漫になっている所為だと腹が立った。 「もう行けよ。お前といると碌なことがない」 「お二階なら階段を上がりきるところまで見届けて帰ります。何部屋かありますし、お部屋まで特定しませんから」 ハルは抵抗する気力もなく歩き出した。歩きながら財布を取り出し、フラットの階段下でスーズに紙幣を二枚差し出した。 「先刻のタクシー代だ。お前に借りを作りたくない」 「いいえ、今日のことは私の所為です。つい、放っておけなくて熱が入って。あなたの気持ちも考えずに」 「もういいから」 素っ気なく遮るとハルは階段を上がり始めた。念のため、痺れが治まりつつある右手で手すりを掴みながら進んだ。上りきったところでスーズを見下ろすと眼が合った。スーズは気まずそうに顔を伏せた。 「本当に今日はすみませんでした。・・・ではこれで。お大事になさって下さい」 思い詰めた表情でスーズが踵を返そうとする姿を見て、不意にハルの気が変わった。 罪悪感を抱いている人間ほど御しやすいものはない。本当にこの男が自分に対してそれを抱いているのなら、利用しない手はない。

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