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第43話

ハルは鞄を落とした。その音で、スーズは再び顔を上げた。 「あのさ・・・まだちょっと本当は、気分が悪くて」 そう云って先程のように手の甲を口唇(くちびる)に当てて俯くと、スーズは慌てて階段を上ろうとする素振りを見せた。だが思い止まった様子で手すりを掴んだまま、 「大丈夫ですか?」 と心配そうに訊ねてくるにとどめた。 「足許がふらつくし、吐き気が治まらないんだよ。・・・やっぱり、部屋まで連れて行って欲しいんだけど」 「ええ、もちろん」 ハルが耐えるように表情を歪めると、スーズはすぐに階段を駆け上がって来た。 先程とは打って変わってしな垂れかかってくるハルを不審がる様子もなく、スーズは荷物を拾い上げて体を支えてくれる。ハルは部屋を指示し、鞄の中に鍵があることを伝えた。 律義に「お邪魔します」などと云ってスーズは玄関へと入った。狭い部屋なので、寝台に行き着くまではすぐだった。ハルをそこへ坐らせ、彼はフローリングの床に膝をついた。 「電気のスイッチはどちらですか?」 「点けなくていいよ。まだそこまで暗くないし」 「分かりました。・・・余計なお世話ですが、少し休まれた方がいいと思います」 「うん、ありがとう。こんなところまでわざわざ」 柔らかい口調で相手の油断を誘う。 「先刻(さっき)あれだけきつい云い方したのに、優しいんだな」 ハルは指を絡めようとしたが、その前にスーズの手は離れてしまった。 「いえ、あなたを動揺させたのは私ですから。いきなりあんな追い詰めるような話し方をして、配慮が足りませんでした。本当にすみません」 「いいよ、もう怒ってないから。それより、何か飲むか?」 立ち上がりかけたハルを押し止め、スーズは立ち上がった。 「どうぞお構いなく。私はもう失礼しますので」 「少しぐらいゆっくりして行けよ」 相手の態度が変化したことにスーズもこの時ようやく気づいた。だがハルの目的を悟ったわけではなく、微かに途惑いを覚えたという程度のものだった。 「ありがとうございます。でも、あなたの体調の良い時に是非また」 「そう?ねえ、ちょっと待って。ここ坐ってよ」 まるで用事があるかのように軽い調子でハルはそう云った。 スーズはほんの少し意外そうな表情をしたものの、やはり身構えもせずにハルの隣へ移動してきた。遠慮がちに寝台に腰を下ろし、再び視線が合う間際、ハルはその口唇(くちびる)に吸いついた。逃げる間を与えないと云うように、性急に舌を入れ込んで歯列をこじ開けようとする。息を吐く暇も与えない。彼を包むシトラスの香りがハルの中に入り込んできた。 「ちょっと」 本気で嫌ならもっと乱暴な動作で制止させることもできたはずだが、スーズはハルの肩を押さえて顔を背け口を離した。 「何するんですか?」 「俺を助けたいって云うなら、話すよりもっと時間のかからない方法がある」 身を引こうとするスーズを、尚も押し倒す勢いでハルは再び口唇を重ねた。 寝台の上についたスーズの右手をハルは左手で押さえ込んでいた。そうは云っても体格差から云って力ではスーズの方が上に違いなかった。だからほとんどこんなことに意味はない。ハルは口唇の動きと熱で捕らえようとしていた。 今、この体を借りたい。誰かの体温が欲しい。 「ハルさん」 初めてこの男に名前を呼ばれたかも知れない。その声に怒りはなかった。だが必死で、若干悲痛さが入り混じっていた。 それにも構わずキハルは露骨にスーズの下半身に触れた。何を求めているか分かるように。ファスナーを先に下ろし、その後でベルトに指を絡めた。その際、指先に彼の肌が直に触れた。めくれたトップスの下の腹の皮膚にちょっと触れてしまっただけだったが、スーズが息を呑むのが分かった。 直後に、先程よりも強い力で体を突き放された。スーズはまるでその場に虫でも現れた時のように素早く立ち上がり、正面からハルを見つめた。 「・・・どうしてこんなこと」 「好きになったんだよ」  笑って云った。笑わなければ体の間から何かが零れ落ちてしまいそうな気がして、不自然でも何でも笑っていなければと思った。 「最初は嫌いだったけど、お前本当は優しいじゃん。だから」 「嘘ですよね。あなたはそうやって眼を見て嘘を吐ける」 またもスーズの指摘は当たっていた。そうだ。これも卑しい自分の武器の一つだった。 「別にいいだろ、こんなこと。減るもんじゃないんだし。それとも、そんなに俺が嫌い?」 「そういう話じゃない。こういうことを簡単にしたらいけません」 「随分堅いこと云うじゃないか。アールの誘いには簡単に乗ったくせに」 「・・・あの時は、私も、彼がどんな相手なのか、よく考えもせずに」 「所詮人間だってことだよな。まあ相手がアールじゃ理性も鈍るか」 「・・・とにかく、先程も云ったようにあなたはご自身をもっと大事に扱うべきです」 本当に律義な男だと思った。こんなことをする相手に、まだ誠意を持った視線を向けてくる。 「何が問題なの?お前だって寂しかったって云ってたじゃないか。アールとできたんだから、俺とだってできるだろ」 「今それは関係ありません。私はあなたの体調が心配でついて来ただけで、こんなつもりは」 「気分が悪いのは嘘じゃない。先刻は本当にひどかった。お前の所為なんだろ?それで?このまま放置して帰るの?」 「放置って、そういうわけじゃ」 「じゃあ責任とれよ」 ハルは足先でスーズの前の性器のあたりを押した。 「別に抱いてくれなくていい。ちょっとじっとしててくれればいいんだ」 ほとんどハルは相手の体に向かって話していた。 「アールみたいにはしてやれないけど、抜いてやるぐらいなら俺にもできる」 そう云って手を取ると、スーズは更に取り乱した。 「やめ、やめて下さい」 「何で?助けてよ」  その一時、ハルはスーズの顔をはっきりと見上げた。振り解こうとしていた手首の動きが止まる。狼狽(うろた)えながらも、スーズの瞳の中では何かがせめぎ合って揺らいでいた。追い討ちをかけるようにハルは潤んだ眼で縋りついた。 「先刻、寂しい奴だって俺のこと云ったよな。そうだよ、すごく寂しい。だから今、お前に助けて欲しいんだよ」 捨て身で懇願しているように見せかけた。 はずだった。 本気じゃない。演技だ。この男から清廉な信条を奪うための。この空虚な気持ちを充たすためだけの、ほんの一時のための。 一秒か、二秒、二人は見つめ合っていた。だがそれだけで精一杯だった。ハルは眼を逸らしてしまった。 今、ものすごく自分が嫌いだった。これまでも一度も自分に満足したことはなかったが、この時は特に強くそう感じた。 この男は自分の内面を正しく揺らす。雨雫が落ちた水面に浮かぶ水輪のように自然で嘘がない静かなゆらぎ。それが怖い。スーズといると、その静かな時間の中で自分と向き合わなければならないと感じる。 相手にどんな眼で見られているか知りたくなくてハルは再び視線を落とすしかなかった。彼の腰のあたりに下ろされた左手までしか見上げることができない。細くしなやかな指だった。 その手が伸びてきて、ハルの体を抱き締めた。スーズの温もりと緊張と息遣いがいっぺんにハルの体の中に沁み渡る。 こういう瞬間は麻薬みたいだ、とハルは思う。誰に抱き締められても、いつも同じことを思う。けれどこの時は、何故か胸が締めつけられるように痛くなった。 同時に、やっとかかった、とも思った。こんなものだ。 夢とか努力とか、そんなきれいごとは罪悪感を抱く必要のない欲望の前では簡単に消え失せてしまう。この男も同じだ。殴って首を絞めて捩じ込んできて最後には唾を吐きかけてくる。それでいい。何も考えたくない。 「こういうことじゃ、あなたは救えない」 その言葉にハルは打ちのめされた。抱いていたスーズの腕が離れ、ごめんなさい、という悲しげな声が降ってきた。 「落ち着いたら、いつでも電話して下さい」 結局最後までスーズの顔を見られなかった。 いっそ泣きながら抱いてくれと云った方があの男には効果的だったかと思い後悔した。 今日、ずっとずっと胸に溜めてきたことをようやく他人に理解してもらえたのに、孤独で孤独で堪らなかった。

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