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第44話

アールの彼女からの電話に、ハルは一度だけ出たことがある。 あの時は喧嘩の最中だった。今では信じられないことだが、初めのうちはまだアールの横暴さにまだちゃんとハルは腹を立てていて、云い争いができていたのだ。 テーブルに置きっぱなしになっていたアールの携帯電話が鳴り出した時、ハルはリビングに一人だった。その三分ほど前に、アールはハルとの諍いを放置してシャワーを浴びに行ってしまっていた。 彼に対するちょっとした仕返しのつもりだった。 アールの携帯電話は毎回ロックがかかっていたが、電話着信の際はすぐ出られるようにパスワードの入力が必要ない設定になっている。通話を放置して、相手の女性が困惑したり、不機嫌になればしめたものだと思いついた。後になって、アールがその対処に追われれば憂さが晴れると思った。 スピーカーに切り替えたわけでもなかったのに、耳に当てていない携帯電話から女性の声がはっきり聞こえてきた。 優しい、可愛らしい声の持ち主だったが、その印象に似つかわしくない慌ただしい調子で、彼女は自分の状況を説明し始めた。どうやら仕事に追われているようで、週末に仕事が入ったため帰れないと云っている。彼女の後ろでは電車のアナウンスがかかっていた。肝心の電話の用件を手短に伝えると、次に理解を乞うような言葉が添えられた。 「ねえ、怒ってるの?何とか云ってよ」 だがその彼女の言葉をハルはしまいまで聞き取れなかった。浴室から出て来たアールが、 「何してる」 と、声をかけてきたからだ。彼はハルとその手許にある自分の携帯電話を見た。発光した画面と、漏れてくる声を察知した途端、タオル一枚と下着のみといった井出達でものすごい勢いで近づいて来た。彼はまず携帯電話の画面を確認し、本体を耳に当てた。だが既に通話は切れていた。かけてきた相手の性急な態度を知っているハルにとっては何ら不思議ではなかった。 「彼女、週末は仕事で帰れないって」 面白がってそう云ったつもりはない。だがアールの耳には含みのある声に聞こえたのかも知れなかった。 至近距離からの攻撃を防御する暇はなかった。強かに顔を打たれ、ハルはバランスを崩した。まさか殴られるとは思いもしなかったのだ。 斜め後ろにあった木製のスツールに体が衝突し、肩と背中に衝撃が走った。それを痛みとして認知する前に、アールに襟首を掴まれ、引きずり倒されて更に数回殴打された。フローリングの床は、衝撃を吸収してくれるはずもなくその度後頭部を打ちつけた。万全の状態であっても、アールとは体格や腕力に差があり、掴む手を振り払ったり、体を押し返すことぐらいしかハルには叶わない。昂奮で無暗に掴みかかられてはそれさえも困難だった。痛いはずなのに、痛みというより硬い何かで脳に直接衝撃を加えられているといった感じで、ハルは気が遠くなりそうだった。 「何を話したっ」 物凄い剣幕で怒鳴られ、体が震えた。電話の相手とは何も話していないというのが真実だったが、これほどまでに激昂している彼に信じてもらえるかどうかは分からなかった。何を話した、何を云ったんだ、と繰り返し耳が麻痺する程の大声で問い質しながら、アールはハルの肩を揺さぶり、再び殴打した。それでもハルが答えられないでいると、その頭を床に打ちつけ、しまいには足で押し潰すような力を加えてくる。逃れようとしても力の差がありすぎて手も足も出なかった。 結局、容赦のない攻撃の渦中で、朦朧としながらもハルが謝り倒すことでその場は収まった。手を離されても震えは止まらなかった。何故か痛みよりも背中に感じたフローリングの床の冷たさばかりに気をとられた。しばらくしてあらゆるところにずきずきとした痛みと熱が襲ってきた。 そんなことをした後でも、アールはハルを帰さず、拷問のようなセックスを強いてきた。何とか鼻血は止まったが、顔は熱を持っていたし、口唇も切れていた。体を使われながらハルは翌日、会社を休んで病院に行かなければならないだろうとぼんやり思っていた。 ぼろぼろにされて疲れきって眠っていると、深夜、玄関から聞こえる声で眼を醒ました。アールだった。独り言を云っているのかと思うぐらい密やかで静かな声だったが、扉の隙間からそっと覗くと彼は電話をしていた。 「・・・そんなのは全然いいから。大口の契約なんだろ。こっちは来週でも大丈夫だよ。・・・そうか、じゃあ俺がやっとく。・・・え?・・・そうか、またか。相当暇なんだな、そいつらも。・・・そんなことないって。同期の中で一番の出世頭が女の君だってことが気に入らないんだよ。そんな嫌味を云ってくる男達、仲間でも何でもない。気にするな。でも、つらいよな。・・・いや、すごいよ、君は。散々嫌な目に遭ってもこうやって誰よりも立派に仕事してるんだから」 アールがこんなに優しい声で話すのを初めて聞いた。どうあっても自分に向けられることのないその声と、寄る辺なく寂しげな後ろ姿がハルの胸を締めつけた。 時々、アールと他人のままでいれば良かったと思う時がある。こういう男と友達にはなれない。だから単なる語学教室の一生徒のままでいれば良かったと後悔した。 そうであったら、この男の胸が潰れるほどの孤独を目の当たりにせずに済んだのに。この男も自分と等しく孤独だと知らずに済んだのに。そしてこの男の弱さを愛おしく思うこともなかった。自分を満身創痍にしたこの男の弱さに、ハルは惚れてしまった。 どんなに大切に思っている人間でも、ここにいなければ意味がない。 どんなに苦しくなるほど想っても、たとえ相手も同じように自分を想ってくれていたとしても、通じ合えなければ意味がない。ちゃんと手を取り合って抱きしめられる位置にいてくれなければ、そんなのは分からない。信頼がいかに容易く孤独に呑み込まれてしまうかを、あの男も自分も知っている。 抱き合うことでアールも自分も孤独に負けずに済むのなら、そうしよう。きっとこの男の方が自分より弱っているのだ。 一人の時に襲ってくる孤独には身を切られるだけで済むが、恋人が傍にいないときの孤独には息の根を止められそうになる。 自分達は猛吹雪の中、山小屋に閉じ込められた遭難者のようなものだった。 抱き合っていなければ凍えて死んでしまう。 けれど、何が何でも彼女を捕まえておこうと行動を起こしたアールには、じきに助けがくるようだ。 そして自分だけが誰もいない孤独に取り残される。

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