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第45話

次の水曜日、スーズは授業に来なかった。アールとの関わりを解消するためだとは思ったが、今となっては自分に対する拒絶もそこに含まれているようにハルは感じた。 アールはスーズのことには一切触れず、時間通り、教科書通り、レッスンを進めた。以前の教え方だった。だが親しみもなければ、意地の悪さも感じられない、非常に事務的なものだった。 だが本当のところ、この男がいらいらしていることにハルは気づいていた。機嫌が悪いのを表に出さないように、仕事中は感情のスイッチを切っているのだ。 帰り道、いつものようにカフェを出て後を追って来たハルに、アールは買い物をしてから来いと命じた。 「今日は酒が呑みたい気分なんだ。何か気の利いたものを買って来いよ」 そのため途中、ハルだけコンビニに立ち寄ることになった。アールの好きな酒やつまみなどを買い込みながらも、ああ、やっぱり始まったな、と思った。 先に部屋に着いていたアールは、ハルが購入して来た品物を確認すると、具体的な指示を何一つ出さなかったことは棚に上げ、 「お前の買って来るものはいつも工夫がない」 と云って、金を投げつけてきた。 アールは一度たりともハルに金銭面での負担を強いてくることはなかったが、その代わりにこういう行動でハルの自尊心を喰い物にする。投げつけられた紙幣と小銭を拾い、引き続きハルは腫れものに触るようにアールに接した。だが、一向にこの男の気分は良くならなかった。 その日、酒を多めに購入したのが一番の間違いだった。足りなくなるとアールの機嫌が悪くなるので、少ないよりは多い方がいいだろう、今夜呑まずとも保管しておけばいい、などと考えていたのだ。 アールはあっという間にビールとアルコール度数の高いチューハイを二本開け、元々冷蔵庫の中にあった自分のワインも呑みきってしまった。ハルが購入してきた乾きもののつまみのパッケージがなかなか開かず、いらいらに拍車がかかりそうだったので、ハルは(はさみ)を持って来て彼に渡そうとした。だがその時パッケージが開き、その拍子にアールの手許にあったグラスが倒れ中身が零れた。苛立ったアールはローテーブルの上にあるものを全て叩き落とした。火の点いたままの煙草まで灰皿ごと落ち、ラグが燃えては大変と真っ先にハルはそれを拾い上げた。灰が舞って、ハルの手と周辺を白く汚した。堪りかねたハルは少し大袈裟に溜息を吐いた。 「俺、もう帰ろうか?」 そう云った瞬間、アールの眼の色が変わった。 彼が手を振り上げた瞬間、だめだ、とハルは思った。こういう時の彼に何を云っても、もう届かない。今日の彼を酔わせたのは失敗だ。自分の愚かさに腹が立った。 強かに顔を打たれた後、肩を掴まれて寝台の上に突き飛ばされた。勢いがついていた所為で反対側の壁に頭部と肩が衝突した。 こうなると何がこの男を刺激してもおかしくない。逃げられればそれが一番いいのだが、下手に動くと反撃と取られかねないので、そのまましばらく静かにしている。そこまでひどくはなかったのだが、倒れ込んだ状態でいればもう放っておいてもらえるだろうという打算が働いていた。一旦始まると彼の気が済むまでハルに打つ手はない。 アールは時々、何かに触発されたように暴力的になることがあり、ハルがその餌食となることはしょっちゅうだった。今回は大方スーズにふられたことが原因だろうと予想がつくが、普段は理由など聞かされない。何が何だか分からないまま、云いがかりをつけられ、殴られ、突き飛ばされ、引きずりまわされる。手が出るきっかけは無数にあった。 自分と同じように、アールも不安定な人間なのだ。ただ、彼は人を搾取できる人種で、自分はその逆だ。支配する側とされる側。こういう時は確実に自分は必要とされている。 感情のごみ箱として。 ハルはこういう時の自分の気持ちがよく分からない。つらいのか痛いのか嬉しいのか。 逃げたいけれど、逃げられない。苦しいけれど、傍にいたい。 今だけは、アールは完全に自分に依存してくれる。必要とされている。 間違って何かの拍子に自分が死んだら、この男は自分のことを忘れないでいてくれるだろうかなどと考えることもある。 動かないハルにアールは更に手を伸ばしてきた。髪を引っ張るようにして上を向けさせると、 「口を開けろ」 と凄んでくる。それから一度手を離して、今度は顎を掴んできた。その力が思った以上に強く、痛かったのでやめさせようとハルはその手に触れたが、アールは指に力を込めて口唇をこじ開けてくる。そしてもう一方の手で、灰まみれの火の点いた煙草をハルの舌に押しつけてきた。 あまりの熱と痛みに声も出ず、咄嗟に顔を背けようとしたがアールはすぐには手を離してくれなかった。まだ若干長さのあった煙草が口の中で折れて、葉が零れ出た。辛さと痺れるような味が舌の上で広がる。葉の一部が喉に入り込みそうになり噎せながらハルは相手の指に咬みついた。それでやっと彼の体の下から逃れることができた。アールの爪が口唇の内側を引っ掻いたのか、そこから血の味が広がっていた。キッチンに駆け込んで嘔吐きつつ、水で口内を洗いながら、自分の危機感と考えが足りなかったことを悔やんだ。 指を咬みつかれたことに対する反撃はなかった。アールは何食わぬ顔で洗面所へ姿を消した。扉が閉まり、しばらくしてシャワーの音が聞こえてきた。ハルは自分の怪我の程度が分かると、室内を片付けにかかった。当然だが、舌が痛かった。舌炎にかかった時以上に動かすのがつらい。 既に時刻は十時を過ぎており掃除機を出すことはできず、ひたすら手を使ってごみを集め、拭き掃除をした。煙草の灰とグラスの破片、呑みかけの酒で、辺りはひどい状態だった。 部屋を片付けながら、スーズとの会話を思い出して、つらくなった。恥ずかしくなった。 こんな莫迦な自分に忠告してくれたのに、あんなみっともない誘い方をして。きっともう二度と会いたくないと思われているはずだ。彼の話し方は確かに性急で未熟だったが、一生懸命話をしてくれた。何一つ説明しなかったのに、あんな風に心の裡を理解してもらえたのは初めてだった。 アールはスーズが云った通り、何も聞いてはくれないし、話してもくれない。 思えば自分はあの男の愚痴一つ聞いたことはない。楽しかったことも悲しかったことも聞いたことがない。 同じ言葉を話せるのに何の意味もない。大事にされようとは思っていないくせに、相手を知りたいなんて、自分が厚かましいのだろうか。 スーズはアールに最後何と云って別れを告げたのだろう。 寂しいからアールと寝たのは自分もスーズも一緒だ。けれどスーズはちゃんと一人に戻ることができている。自分はどうしてそれができないのか。

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