片付けられた部屋を見ても、アールは何も云わなかった。少し正気を取り戻したようには見えるが、悪かったとか、痛くないかとか、そういう言葉は一切ない。彼はハルにはシャワーを浴びる暇を与えなかった。 「さっさと服を脱げよ」 すれ違いながらそう命令された時、ハルは本気で抵抗しようと考えた。もう帰ると云おうと思った。けれど、舌に火傷をさせられた記憶がまだ鮮明すぎる。怖かった。まだ彼に対し強く出ようという気にはなれなかった。 返事をしないでいると、先程ハルがつまみのパッケージを開けるために持って来た鋏(はさみ)をアールが手許へ引き寄せるのが眼に入った。片付けるのを忘れていた。 何気ない動作なのか、服を切り刻むつもりでいるのか。 半ば恐怖心に駆られてハルは服を脱ぎ始めた。 今更何だというのだ。この一回を拒んだところで、事態は好転しない。この男が落ち着きを取り戻す方法がそれしかないのなら、その捌け口になるぐらい、どうということはない。 藁にも縋る思いで誰かにしがみつきたい一時が、そうしなければ明日から生きていけないほどの一時が、自分達にはある。 それに、どうあってもちゃんと自分の体が反応することをハルは知っている。 アールはまだ完全に服を脱ぎきっていないハルを寝台に引き倒し、直に肌に触れてきた。サンダルウッドとバニラが入り混じった香りが鼻先に届く。アールには風呂上がりに薄く香水をつける習慣があり、数ある中でもこの甘い香りはハルの最も好きな匂いだった。 耳から顎、喉、胸と順にアールの舌が這っていって一番感度の高い場所で動きが止まる。片方の乳首を吸われながら、もう一方を指先で抓まれると、それだけで気持ちが簡単に弛緩した。先程の彼の行動を許してなどいないのに、すぐにその心地良さに気を奪われた。自分はいつも容易くこの男に感情を書き換えられてしまう。 肌と肌が触れ合う感覚は何物にも代えがたい。アールの体重と体温がハルの中でわだかまっていた感情を煙に巻くように綯い交ぜにした。 たとえ気持ちが伴っていなくても、他で何をしたとしても、寝台の上で抱き合えばアールは必ず自分を天国へ連れて行ってくれる。この男からは離れられない。ほんの一瞬であれ、この男は自分を求めてくれる。こんな体にも価値があると思わせてくれる。 張り詰めていた心が少しずつ開いて柔らかくなると、体の方も彼を受け入れられる状態になっていた。少し前まで帰りたいと思っていたことも忘れ、ハルは手を伸ばしてアールを抱き締めた。彼が好きで堪らなくなっていた。どうあっても結局アールは自分にとって、初めての男だということだった。脳と体の深いところがそのことを憶えていて、この男を受け入れることを悦んでいるようだった。 相手の舌が口唇の間を割って入ってきた瞬間、それを待っていたハルの舌は踊るように絡みついた。 脳味噌を忘我と悦楽で満たして、淫靡な雰囲気に酔い痴れるのに、キスより役立つものをハルは知らない。アールがキスを嫌がらない男で良かった。この男のキスで自分は何にでもなれる。 アールはわざと的外れに、勃ち上がった性器をハルの大腿に擦りつけてくる。ハルの中の情欲を掻き立てるためにアールがよく使う手だ。 「ねえ・・・ねえ、お願いだから」 そう云って自ら秘所を広げてみせるが、当然ここで望んだ通りのものを与えられたことはない。 「使って下さいって云えよ。そしたら挿れてやる」 後背位のため言葉を発するアールの表情は見えないが、笑っていることは分かる。 ハルは身悶えしながら、ひどく湿った声で云われた通りの言葉をなぞった。 「違う。英語で云えよ。もっと分かりやすく」 どう云えばいいのか、ハルは一瞬言葉に詰まった。素面だったら絶対に口にできない。 途惑いを見せたハルの頭にアールが触れてきた。髪を梳く真似をしたかと思うと、髪を指に絡めたまま掌を握り込んで引っ張り上げてくる。 「早く」 痛みと被虐性欲に急かされて、ハルはその命令に従った。 いつものことだが欲情に任せて何の下準備もなしに、アールは押し入ってきた。ハル自身が毎回隙を見つけて事前に潤滑剤を後孔に塗り込んでいなければ、この体はとっくにだめになっていたはずだ。自分で自分を守るしかない。相手に期待したら、愛してもらえると思ったら、傷つくだけだ。 ユニとは反対に、アールはハルの喘ぎ声や悲鳴を好む。だが今日は舌が巧く動かせず、出る声がいつもと違った。彼が体の中へ入ってくる感覚に全身が蕩けそうだった。気持ち良さで口許が緩みきって、涎が滴った。 「あ、・・・あ――」 「だらしない」 アールの言葉を聞いて、本当にその通りだと自分でも思った。既に頭を打って舌を火傷させられていたし、口の端にも怪我もしている。そして諸悪の根源である男に今、下半身を蹂躙されながら首を絞められていた。 それなのに体の奥が熱い。 今このまま死んでもいいと思う。この男に殺されたいとまで思う。この熱は生き物だ。けものだ。死ぬまできっとこの体を放してはくれない。惨めなほど快楽を貪らせ、それを自分に相応しい幸せのように思わせる残酷な毒を持っている。 アールはハルの内側の最も熱く、いいところをアールは知っているのに、なかなかそこに触れてはくれない。涙が出てきた。届きそうで届かない快感がたまらなく恋しい。 「泣くほどいいか」 ハルは切なさで何度も頷いた。嗚咽の入り混じった呻き声で、うう、と漏らした。 「そういう顔が一番いい」 後背位に変えられた際に肩や上腕に咬みつかれ、竿を引き絞るように握られた。物を扱うような遣り様に、これこそが自分の一番求めているものだと思い至る。何も考えたくない時に、この男との情事はうってつけだ。 スーズの忠告を裏切ったという後ろめたさがハルの頭を過った。 でも、今は本当のことなんてどうでもいい。いつアールがいなくなってしまうかなんて知りたくない。何も知りたくない。水曜日の夜、この男と会えば自分は充たされる。それが全部でそれだけが本当だ。 ハルは自分が達する前に、結合部付近が温かいもので満たされるのを感じた。アールは引き抜いた陰茎からコンドームを外し、精液に塗れたそれをハルの顔になすりつけてきたかと思うと、そのまま口の中へ押し込んでくる。 「舌遣いが悪いぞ」 一体誰の所為なのかとハルは思った。舌の痛みを堪えて事後処理をしつつ、自身の竿を扱いて吐精に達した。当然、彼に見られているのは承知の上だ。 こんなことをする男が、果たして本当に女と結婚できるのだろうか。そんなはずはない。自分以外の人間がこういうことを受け入れられるとは到底思えない。