仕事用の携帯電話が本当に何処にも見当たらないことに気づいたのは、午後の始業前のことだった。 昼休みが終わり食事から戻って来たハルは、午後一番で取引先に向かう予定になっていた。身支度を整え直し、手荷物を確認した。そしてデスクの上を検めたところで、ようやく焦り始めた。 「・・・あれ」 ハルは常に私用携帯と社用携帯の2台を持ち歩いている。 実は昼食に出る前に、社用携帯が手許にないことには気づいていた。だがその時は、十分ほどで食事からは戻って来るし、恐らくデスクの上の書類に紛れているのだろう、簡単に探せばすぐ出てくる、そう思い込んで深く考えてはいなかった。云ってしまえば、その場で書類をかき分けてまで見つけ出すのが面倒だったのだ。それに厳密に云うと休憩時間や終業後は社用携帯の着信に出る必要はないという理由もあった。 私物の携帯電話を使い、社用携帯に電話をかけてみたが、電源が入っていないとの音声が流れるばかりだった。ハルは電源を切った憶えはない。着信音はオンにしてあったし、充電の方も余裕があったはずだ。午前中は確かに手許にあった。というか、昼休みに入るほんの一時間前、携帯電話を使って代理店と話をしたばかりなのだ。一体何処で紛失したのだろうか。確かにデスクの上に置いたと思ったのに。 今に至るまでの行動を脳内で確認しながら、ハルは心の底から溜息を吐いた。 最近色々なことがあったためにぼんやりしていることが多いのかも知れない。今日に至ってはあまり食欲もなく、何となく体が重く感じられていた。全ての行動が百パーセント間違いないのかと問われれば、否と云うほかなかった。どこか隙間に落下してやいないかと探しながら、他の場所に置き忘れた可能性はないのか、何度も考える。 「そろそろ時間なんじゃないですか」 ユニにそう声をかけられ、時計を確認した。出かけなければならない時間が差し迫っていた。 「先刻(さっき)からうろうろうろうろ、何やってんですか？」 ハルのすぐ隣に立ち、眼では手許の書類を確認しつつ、周囲に聞こえない程度の声でユニはそう訊いてきた。 この時点でユニに携帯電話のことを話す気にはなれなかった。まだ紛失したとは決まっていない。どうせ莫迦にされるのが分かっていたので、何も云わなくて済むならその方がいい。 「・・・行って来る」 そう云って荷物を手にし、その場を後にした。廊下でブランと顔を合わせたので、彼にだけは事情を話し、何か用事があれば全て私用携帯にかけてくるよう指示を出した。 「それは大変ですね。俺もちょっとその辺探してみます。黒のケースでしたよね？」 「ああ。でも頼む。まだ誰にも云わないでもらっていいか？」 「オッケーです。大丈夫ですよ、きっとその辺から出てくると思います」 こういうイレギュラーなことがあった場合、狼狽(うろた)えるのが一番良くない。とにかく落ち着いて眼の前の仕事を片付けることに専念しよう。 だが出かけた先で、今度は書類が一枚抜けていることに気づいた。持参した資料は誰かに用意させたものではない。前日に自分で確認したはずの書類だった。その後はクリップで留めて紙袋に入れ、そのままにしていた。何かを抜き取るようなことはしていない。自分が見落としていたとしか考えられなかった。相手方の担当者に謝罪し、後日足りない書面を郵送すると伝えてその日は相手先の会社を辞した。 それだけでも充分ひどい午後だった。 実はここひと月ほどミスが続いていた。これまでにないミスを連発していた。今のところ、何とか自分で始末をつけられる範囲ではあったが、上司に提出するのに必要な資料が欠けていたり、新規顧客に既存顧客と同じ資料を送ってしまったりということから始まり、先週の火曜などは取引先との面談日を危うく間違える寸前だったし、水曜は異動する先輩からの引き継ぎ客のリストを失くしていた。木曜、ブランに新規の営業をかけてもらうつもりで用意していたリストは、最新のものではなかった。彼は何件かのアプローチ先から、素っ気ない対応をされ、嫌味を云われ、お宅の会社は執拗い、と怒られ、あるところからもう入会済みだと途惑った声で云われて、ようやく電話のリストがおかしいということに気づいたらしい。彼の時間を無駄にしたことを詫びると、 「でも、未入会のお客様には、もしかしたら再考して頂ける機会になったかも知れませんから」 と云って立ち上がり、ハルにそっと笑いかけてきた。 ユニはそれを目敏く見ていて、偶然を装い、人気のない所で肩をぶつけてきた。 「一人で勝手に失敗するのは構いませんが、他人を巻き込まないで下さい」 この後輩から辛辣にものを云われるのは慣れていたが、こういう時はダメージが嵩む。もちろん、ユニの云うことは当然だった。何故自分がこれほど身が入っていないのかは分からないままだった。 特別仕事の量が増えたわけでもないのに、心配した上司が一体どうしたのかと訊ねてきた。 決して大きな会社ではないため一人が崩れるとその余波が周辺にまで及んでしまう。 気が緩んでいるのだとハルは思った。実は数日前に転職エージェントに登録を済ませ、担当者との面談まで済ませていた。 「中途採用の枠で見ると、二十八歳というのは非常に価値が高い年齢なんですよ。もちろん、新卒採用の時と違って初めから求められるものも多いですが、若さとスキルのバランスがいい時期なんです。あなたなら、すぐに何件かいい案件をご紹介できますよ。日常会話レベルの英語ができるだけで選べるお仕事の範囲はかなり広がりますから」 耳障りのいい言葉につい気を許して色々喋りそうになる。とりあえず自分の職務経歴書を送り、求人広告を見繕ってもらうことにして直接のエージェントとの面談は一旦保留にした。 気になった会社に求人広告が出ていないかホームページを確かめたりもしていた。既に履歴書や封筒なども準備してある。今の会社を心底嫌になって辞めるわけではないだけに、当然迷いはあった。だが、今の年齢を逃してしまえば自分のチャンスは目減りしてしまうのだということを考えると、より真剣に次の仕事のことを考えざると得なかった。 だからといって、今の仕事を疎かにしてはいけないし、そんなつもりもなかった。 それなのに、ここのところひどい。 取引先から社に帰る途中、ブランの個人携帯に連絡をとってみると、特に問題は起きていないが、やはりハルの携帯電話は見つかっていないと云う。 携帯電話には客先や取引先の電話番号だけでなく、彼等とのメールや資料画像も保存されている。万が一悪意ある第三者に拾われたら会社の運営に関わる大問題に発展するかも知れない。 ハルは社用携帯には電子マネーのアプリやクレジットの機能は入れていない。一応ロックもかかっているため、即座に悪用される心配はないと思うが、電話帳に全ての取引先の電話番号が登録されているのと、一部の顧客からの着信履歴が残っていること、そしてどこにやったか皆目見当もつかないという事態が、非常にハルの気分を重くした。 社に戻ってから、もう一度デスクの周辺から思いつく限りの場所を全て捜索し、最終的に肚を括って総務部へ向かった。携帯電話を紛失した旨を伝えると、詳しく説明するよう求められた。 何処へやったのか見当もつかないということを聞くと、総務部の社員から呆れ顔をされた。相手は口には出さなかったが、客先の個人情報やメールが入った携帯電話の価値が分からないわけでもあるまいし、どういう扱い方をしているのだと思っているようだった。