48 / 100

第48話

とにかく携帯電話に付けられているGPS機能を追ってみると云う総務部に後を任せ、ハルは他の仕事に取りかかった。 当然、報告を受けた上司も個人情報や社外秘のメールなどが外に漏れることを心配していた。万が一そんな事態になれば、始末書で済む話ではない。 しばらくして総務部から連絡が入った。GPSが追えないので、キャリアのサポートセンターに連絡し全ての機能を遠隔でロックしたとの報告だった。 退社後、そんなわけはないと考えながらも道すがら落としたことも念のため踏まえて、最寄りの交番に足を運んだ。無駄と思いつつ一応確認をしてもらい、その日の拾得物の中に自分の携帯電話がないことを確認した。 最悪なのは翌日の火曜の夕方、母から会社の代表番号宛に電話が入ったことだ。 彼女の思いつきの不要な連絡を避けるため、社用携帯の番号しか教えていなかったことが仇になった。母とて毎日ハルに電話をかけて来るわけではないのだが、たまたま彼女が用事を思いついたタイミングと、ハルが携帯を紛失したタイミングが重なってしまったのだ。運が悪かったとしか云いようがない。母は昨日の昼からずっと社用携帯に電話をかけていたのだと云う。 「いつもは遅くても当日中にかけ直して来るじゃない。丸一日半連絡がないなんて初めてだったから心配してたのよ」 母には携帯電話が破損して修理中なのだという嘘を吐いた。自分のミスで紛失したなどとは云いたくなかった。 「それはともかく大した用事でもないのに、たった一日連絡がつかなかっただけで会社にかけてくるのやめてくれない?」 「一人暮らしの我が子を心配するのは当然でしょ?何かあってからじゃ遅いのよ」 純粋な親心と呼ぶにしては、大袈裟すぎる。それに何よりこの職場はハルが自分で見つけた、母が手を出せない領域のはずだった。そこに触れられたことが、はっきり云って気持ち悪かった。 デスクの固定電話で会話をしていたので、なるべく穏便に済ませたかった。邪険な対応をして母を怒らせ、彼女の声が隣席のブランにまで聞こえるような事態になるのだけは避けたい。とにかく携帯電話が戻って来たら連絡を入れると告げてハルは電話を切った。 母からの電話に最初に出たブランは、その様子を聞き届けた後で、 「緊急事態とかじゃなくて良かったですね」 と、云ってくれたが、直後に後ろを通ったユニからは、 「たった一日で身を案じて電話をかけて来るなんて愛されてるんですね」 などと見当違いなことを云われて嗤われた。彼にも全てのやりとりを聞かれていたらしい。恥ずかしいどころの話ではなかった。 ちなみにその日は営業の訪問日時を間違えて出掛けており、自分の調子がどれほど狂っているのかまたしても思い知る羽目になった。 その日の午後四時頃、喫煙所で同期のサワという男に声をかけられた。 彼とは大学は違うが同じ英文科を専攻していたこともあって入社直後はよく話をする機会があった。サワはハルより一つ歳上でこの会社に来る前、別の仕事を一年間していた。同期ではあるがハルは新卒採用で、サワは中途採用で入社して来ていた。 自分が不調な所為で、同じ課にいる彼にまで一部の仕事が廻ってしまっていた。そのことを謝ると、まず体調は大丈夫なのかという心配をかけられた。ハルの犯したミスの数々を知っていて、「頑張り過ぎているんじゃないか」 と、心配された。 「お前ほどじゃないよ」 「俺は適当にさぼってるんだよ」 ハルの謙遜に対し、サワは少し笑って肩をすくめてから、煙草に火を点けた。 彼はブランと似た焦茶色の瞳をした、長身でスマートな男だった。一つ歳上というだけなのに、アールと同じくらい落ち着いて見える。彼はいつも涼しげな表情で仕事をこなしており、先輩からも後輩からも受けが良かった。入社の際のグループ研修ではみんなが敬遠するリーダー役を買って出てくれたし、誰かがまごついている時には必ず手を差し伸べていた。当然、ミスをしたなどという話は聞いたことがない。要領が良く、良い意味で他人のしていることを盗むのが巧かった。 「二十人だったっけか」 サワは云った。 「何が?」 「あれだけいた同期も、この六年で随分いなくなった」 サワの言葉に対し、ハルは力なく笑った。 「人生色々だよな」 「友達に云われたよ。営業なんてよく六年もやれるなって。大して待遇も良くならないのにってさ。だから訂正した。営業だけじゃなく事務もやらされてるって」 この男の活気がハルを少し元気づけた。しっかりしなくてはいけないと思う。 「お前、あの話知ってるか?来年度、営業課は新卒採用をしないって話」 サワにそう云われてハルは顔を上げた。 「え、そうなのか?」 「派遣や契約社員の枠を増やすんだってさ。それから教材のプロモーション活動なんかはもう外部委託にするらしい」 それから言葉を切って、自分の言葉に笑みを零しているハルを見つめた。 「辞めようなんて思ってないよな?」 「・・・何で?」 「春に辞めてった奴も、今のお前と同じような雰囲気だったからさ」 同期と友達になろうと思ったことはない。それはサワに対しても同じだった。だがこの時、仕事とは関係なしに自分に構ってくれた彼の優しさについ寄りかかりたくなってしまった。普段は職場の人間と業務以外で積極的に関わろうなどとは思わないのに、つい情緒的な面が出た。 ハルは自分でも分からないうちにミスを繰り返しているのだということを打ち明け、その後転職を考えていることを話した。サワは本気で驚いていた。 「本当に?転職なんて、そんな気配全然なかった」 「まだ誰にも云ってない。エージェントには登録したし、きっと仕事も紹介できるって云われてるけど、本当にうまくいくか分からないし。この仕事が嫌いってわけじゃないんだ。けど、最近ちょっと色々思うところあって。お前は、そういうの、考えたことない?」 「俺にはできないよ。よく決心したな。まあでも、仕事を変えるなら早い方がいいよ」 確かに同期のサワは転職する必要など全くないだろうと思った。いつも安定した契約数を叩き出しており、大きなミスをしたというような話も聞いたことがない。以前彼は『これでもそれなり野心は持ってるんだ』と云っていた。だがこれみよがしに熱心さをアピールするわけではなく、淡々と的確に毎日仕事をこなしている。ハルは派手に目立つ社員ではなくサワのような男になりたいと思っていた。 「転職活動は支障のない程度にやれよ」 と笑いながら云ったサワは、その後で「寂しくなる」とも呟いた。 今では同じ課にいてもここしばらくは業務内容に多少の違いがあり、あまり話をしなくなっていたが、話をする必要がある時、いつもサワは友好的だった。 そんな彼ともう少し喋っていたくなって、そのまま個人的な事情まで打ち明けてしまった。アールのことだった。 いくらか事実を脚色して、相手は異性だということにした。ユニのことは話せない。名前を明かさずとも、職場の人間とそういう関係になっているなどとはどう誤魔化しても話せなかった。 サワは転職活動を打ち明けた時と同じか、それ以上にびっくりしていた。 「お前、そういう恋愛をするタイプには見えないからさ」 と彼は云った。それから純粋に笑われた。 「電話番号も知らされないなんて、その時点で遊びだって分かってたんじゃないのか?そんなのに入れ込むほどもう若くないだろ、俺もお前も。まさか、いつか本命に昇格できるとでも思ってたんじゃないだろうな?貴重な時間を無駄にするなよ」 ぐうの音も出ずハルはただ煙草を燻らせる。 話した後で、ハルは自分のしていることに腹が立ってきた。悩みを相談しているなんて。しかも会社の同期に。こんなことは垂れ流すものではない。悩みなんて、単なる不安でしかないからだ。ずっとそういう風に考えてきたこの自分が、一体どれだけ今回のことで動揺しているというのだろうか。 ハルは今日話したことを全て他言無用とし、最後にこの歳上の同期に一つ訊ねた。 「何か助言があれば云って欲しいんだけど」 「仕事の方?女の方?」 「両方」 「機を逃すなってことかな。ここぞっていう時に決断しないと、どっちも巧くいかない」 サワはまともな男だということが見ていて分かる。普通に仕事をし、普通に女と恋愛をしていずれ結婚するごく普通の男だ。こういう同い年ぐらいの男と最近関わっていない。自分にも友人が欲しい。下心を抱かない、普通の友人が自分にも必要だ。 仕事をほっぽり出して長居してしまったことに気づき、ハルは掛時計に眼をやって煙草を揉み消した。 「行かなきゃ」 革張りのベンチから腰を上げると立ち眩みが襲ってきた。程度の軽いものなら珍しいことではないが、今回は深い眩暈だった。頭痛と共に視界が歪んだため、ハルは少しの間その場に立ち尽くした。 「どうした?」 「・・・いや、何でもない。もう行くよ」 「ああ、ハル」 サワに呼び止められて、ハルは喫煙所の扉を開けたまま振り返った。 「話してくれてありがとう」 その言葉を発した彼の表情に何故か云いようのない違和感を覚えた。だがハルは深くは考えず、友人にそうするように笑みを返してその場を去った。

ともだちにシェアしよう!