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第49話

直後、体が熱いことに気づいた。熱があったのだ。そう云えば日中もあまり食欲がなかった。立ち眩みがしたのも、原因はこれだ。思えば、日曜の夕方にスーズと会ったあたりから、何となく体に違和感がある気がしていた。 そうは云っても、あと少しで終業時刻だった。特別大きな仕事もない。水曜日ではないが、早く残りの業務を終わらせて今日は早めに帰ろう。ハルはそう思っていた。 だが母の電話のようにタイミングの悪さというのは重なるもので、定時五分前に客先から電話が入り、注文したのとは別の教材が届いていると云われた。相手は個人客ではなく、民間の学童施設A社で、経営している全ての教室で来月から英語のオプションコースを開講することになっており、そこでハルの会社の教材を使ってくれることになっていた。従って受注数もかなりのものだった。 教材を梱包して送る作業そのものは物流部の仕事だが、何を何処にどれだけ発送するかの指示は営業部がしていた。社内メールを確認していると、先週の金曜日ハルがいない時間帯に、客先から電話を受けたブランがやらかしていることが発覚した。 その日は同日に注文依頼を受けた遠方にある私立幼稚園に、A社に送るべき荷物は発送されていた。ブランが出した物流部への指示が間違っていたのだ。 「どういうこと?」  そう訊いた後でハルの口から溜息が出た。時間が経つにつれ、どうにもこうにも頭も体も動かなくなってきていた。ブランはおどおどと答えた。 「・・・あの、指示が逆だったみたいで」 「そんなのはもう分かってるよ」 ちょうどそこへユニの声が割って入ってきてハルを呼んだ。 「電話が入っていますが」 ブランの手前、ユニの不遜な態度は鳴りを潜めていた。彼はハルに用件だけ伝えるとすぐさま視線を外して、ブランに親しげな表情を向けている。ハルはすぐ電話をまわすようユニに伝えた。相手は(くだん)の私立幼稚園だった。当然、電話の相手は間違って届いた教材の中身について困惑した様子で訊ねてきた。事情を話すと相手は子供相手の商売だからなのか、いきなり怒り出すような気性の粗さは見せず笑いを漏らしていいたが、それは完全に失笑に近い感じのものだった。 上司にも報告しなくてはならない。体調の悪さと機嫌の悪さで、ハルは爆発しそうだった。所在なさげに後方で様子を見ていたブランは電話を切ったばかりのハルに弱々しく、どうなりましたか、と訊ねてきた。 「あのさあ、そんなに難しいこと頼んでないと思うんだけど」 「すみません」 ブランの表情が気まずさと後悔に歪んだ。だが今回は一度の謝罪ではハルの気が済まなかった。初めてやる仕事ではないのだ。もう配属されて半年以上経つのにこんなところでうっかりされては困る。 ブランが追い詰められているのを察したユニが、二人の間に入ろうとしてきた。 「私も一緒に確認すべきでした」 「こんなの通常の事務連絡だ。これができないんだったら、こいつにここでできる仕事はない。甘やかすのも大概にしろ」 ミスをした時の居たたまれない気持ちが最近のハルはすごくよく分かるのに、体調のこともあって寛容になれなかった。体温の上昇と共に、頭にも血が昇りやすくなっている。 日頃ハルは後輩の失敗に対し、改善点を伝えるだけで責めることなどしない。今回は執拗な叱責だった。ユニはハルの機嫌の悪さを見抜き、冷ややかな表情で居直った。 「あなただって最近はミスが多い」 「何?」 「ただでさえ年末を控えて忙しいのに、ここ最近余計な仕事を増やしていたのはあなたの方です」 「ユニさん」 ブランは控えめに後ろから声をかけたが、その牽制にユニは反応しなかった。 「第一、彼の仕事を今回どうして確認してやらなかったんです?まだ一年目なんですから、慣れてきた仕事でも余裕がなくなればうっかりすることもあるでしょう。あなたが携帯を失くしたり、取引先に持って行く資料を忘れたりする度に、彼だって途惑うんですよ」  ハルは自分の机下のワゴンを蹴った。ユニとブランは二人して硬直した。感情的な物音を立てたことに、自分でも驚いていた。平静を失った自分に周囲の注目が集まるのを感じる。 「とにかく後始末は俺がするから、他の仕事をするか、用がないならもう帰れ」 そう指示を出して自分のパソコンに向き直った。 ユニの云う通りだった。最初に面倒を見たユニがあまりに飲み込みが早かったので、知らず知らずのうちにブランも同じように成長してくれると思っているところがあったのかも知れない。今回のことは後輩の仕事を教育係として確認しきれなかった自分の所為なのだ。 その日、急ぎの対応は一通り終えたものの、他の仕事との兼ね合いもあって帰宅時間は大幅に遅れた。 関節は痛いし、寒気はするわで電車を降りる頃には、意識が朦朧とし始めていた。 何とか最寄駅に辿り着いて改札を出たちょうどその時、駅ビルからアールが出て来るところに出喰わした。夜の九時半を過ぎたところで、彼も仕事が終わったらしい。こんなタイミングは滅多にあることではなかった。 「アール」 ハルが声をかけると、アールは足を止めて振り返った。だが誰が呼びかけてきたのかが分かると、彼は眉一つ動かさずに再び歩き出した。確かに彼の眼はハルを捉えていたはずだった。 以前、外で呼ぶなと云われたことを思い直し、階段手前の広場まで来たところでもう一度控えめに声をかけてみる。アールは至極面倒臭そうに再度立ち止まった。その表情には偶然顔見知りに会った時に浮かんでくる不意の親しみのようなものは一切感じられなかった。 「一体どうした?」 いくらか予想はしていたが、やはりその受け答えは素っ気なかった。 「どうした、ってことはないけど、ほら、見かけて、声もかけない方が変かなって」 「別に変じゃない。用がないんだったら声をかけてくるな」 アールはほとんど表情を変えずにそう答えた。 ハルとしては他愛ない会話をしたいだけだったのだが、彼は早くこの場を切り上げて立ち去りたいらしい。この後用事があるのかも知れないが、少し声をかけただけでこんなに邪険にされるとは思わず、悲しくなった。怒りや苛立ちを感じるほどのエネルギーはもうハルの体の中には残っていないのだ。 アールに話しかけた動機に、体調不良からくる心細さがなかったと云えば嘘になる。自宅に帰っても誰もいない。こんな時に気軽に電話できる友達一人自分にはいない。友達にはみんな彼女がいる。結婚して子供がいる友達も多い。それなのに自分ときたら性懲りもなくこんな男に縋りついて、たった一つ願っていることと云えば、水曜日でなくとも会いたいということだけなのだから、笑ってしまう。 見知った顔にばったり会った時というのは一種の昂揚感のようなものが生じる。この男にもそんな感情が生まれてくれるかも知れないとハルは期待していた。だがアールの態度を見る限り、全くそんな隙は用意されていないようだった。 「用はないんだろ?なら俺は帰るから」 その声には不用意に声をかけてきたことを非難するような響きがあった。 別にセックスしたいわけじゃない。 ちょっと弱った時に会話ができる、そんな誰かがいるだけで気持ちは前向きになれる。そんな相手がハルも欲しかった。 もっと贅沢を云えば、自分の味方だと云ってくれるような、たとえ一度でも、演技でも構わないから、アールにそんな優しさを見せて欲しかった。けれど気紛れに好きだと云うくせに、それを本当だと感じさせるような行動を彼は一度もとってくれたことはない。 「待って。今日部屋に行ってもいい?」 「は?」 アールは足を止めて再びハルの方を見た。 「急に何云ってる。前に確認しただろ。水曜以外は来ないって」 「そうだな。でもどうして?」 ハルは初めて理由を訊いた。 「これはお前の決めたルールだ。でも本当のところ、その理由が分からないんだよ」 「理由が分からなくてもお前は同意したんじゃないか」 「・・・そうだけど」 「急に云い出されても困る。こっちの都合も考えろ」 アールは自分の云い分が正しいと信じて疑わない様子で、ハルの要求を撥ねつけた。 足許がふらついたハルを見て、眉をしかめる。 「何だ、酒でも呑んで来たのか?」 ハルは否定しなかった。体調が悪いことを明かせば問答無用で彼が立ち去るのが分かっていたからだ。 「・・・少しね」 「とにかく今日は無理だよ。前にも云った通りだ。他の曜日は都合が悪いんだよ。明日ならいい。水曜だからな」 「明日は会わなくてもいい」 ハルの熱っぽい体は、熱っぽい言葉を吐かせた。 「今日、ちょっとでいいんだよ」 「ならもう次から会わない」 辛辣な態度で撥ねつけるようにアールは云い切った。 「人の都合が考えられない奴に付き合う気はない。そういうのが許される年齢はとっくに過ぎてるだろうが」 「・・・分かった。じゃあせめてそこまで一緒に歩こう」 「断る」 「何で?」 「今日のお前は執拗い」 そう云ってハルのすぐ脇をすり抜けた。 道端で気紛れに撫でまわした野良猫相手であっても、もう少し別れ際の余韻というものがあるはずだが、アールにそんな気は全くないようだった。 頭と体は別物だと云う理屈は分かる。初めの頃は同衾した相手にいちいち情を持たない男であっても構わないと思っていた。 でも実を云うとほんの少しの希望も持っていた。いつか好かれたらいいなと思う気持ちもあった。けれどだめだ。どれだけ与えているつもりでも、この男からは奪われる。どれだけ耐えようが、真心を込めようが、多分この男には届かない。スーズの云う通り、見切りをつけなくてはならない時期だ。 先に歩き出したアールを追って、ハルはやや強引に顔を寄せて口づけた。 まだ時間はそこまで遅くはない。行き交う人々の誰かに目撃された可能性はあった。少なくとも一人は見ていた。少し離れたところから、客引きをしているともとられかねない、身持ちの悪そう赤い服を着た女が呆気にとられた様子でハルの行動を見ていた。けばけばしい睫毛に縁取られた瞼を硬直させ、ことの成り行きを見守っている。 アールは即座にハルの体を突き放した。汚いもの、信じられないものを目の当たりにした時のような反応で、怒りの中に若干恐れが垣間見えた。 「どうかしてるのか?」 ハルの答えを待たず、彼は足早に立ち去った。 アールはいつも自分に何かぶつけて残していくばかりで、彼の中に自分が何かを残せたことは一度もない。ハルは毎回そう思う。 胸に感じた痛みが体の節々に転移していく。 莫迦みたいだと分かっていた。自分の何もかもが莫迦げている。 タクシー乗り場で空車を見つけると、ハルは即座に乗り込んだ。もう一歩も歩けなかった。 語学教室で初めてアールに会った日のことをハルはまだ忘れられない。アールは自分の声を好きだと云ってくれた。 それであっという間に好きになってしまった。好きになった相手に受け入れられることなどないと思っていたから、純粋にただ嬉しかった。 アールはユニと違って、好きだという言葉を簡単に遣う。その言葉を遣えばハルが自分を受け入れ、許し続けると思っている。それを甚振っていい理由にしている。彼の都合のために吐かれた言葉に縋りついてきた自分の愚かさには疾うに気づいていた。けれど一番初めに云ってくれたあの日の『好き』だけは、嘘ではなかったように思う。あの時は云ってしまえばまだ他人で、だからこそ偽りのない言葉が聞けたのだと思う。あれは彼の下心のない本心だったと今でも思う。その思い出が、いくつかあるアールから離れられない理由の一つだった。 あんな風に人前で激しく拒絶された後でも、ハルはまだ思いきれなかった。見切りをつけるつもりだったのが、自分がどれほどあの男を好きなのか思い知らされた。いずれいなくなってもいい。最後をいつにするからあの男が決めればいい。最後に、これが最後だと一言教えてくれれば尚いいのだけれど。そうしたら、それをあの男の最後の優しさだと思える。あとに何も残らなくても構いはしない。

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