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第50話
翌日は会社を休んだ。
朝七時に上司宛にメールを打ち、同じ文章をユニとブランにも送った。始業時間前に職場に電話を入れ、再び眠りについた。
昼の十二時過ぎに眼が醒めて、何かしらものを食べてから薬を飲まなければと思い、冷蔵庫を開けてみた。昨日、何処かで食べやすい物を買って来れば良かった。冷蔵庫には野菜屑しかないし、パンは切らしている。シリアルが一食分残っていたが、牛乳がなかった。腐っていた。
コンビニまでは歩いて五分だが、加えて身支度の手間を考えると体調の悪い中出かけて行くのはかなりの重労働に感じられた。だが行ってしまえば、必要なものは全て揃う。口当たりのいいものを多めに買って来よう。結局、寝間着を脱いでデニムとシャツとコートを身につけた。
出かける直前、何気なく携帯電話を見たが、特に誰からも連絡は来ていなかった。ハルは携帯電話をそのままにして部屋を出た。
十一月も二週目に入り、ぐっと冷え込むようになった。
料理がほとんどできないハルはこんな時でも出来合いの惣菜に頼るしかない。普段は無駄がないよう買い物をするが、今回に限っては食べられそうなものを手あたり次第買うことにした。
そして眩暈を覚えながらやっとのことで帰宅した。
部屋の窓からは燦々と冬の陽光が差し込んできている。水曜日の今日はアールと会う日だ。語学教室の予約もまだそのままだった。だが、こんな状態では外へ出るのもままならない。
語学教室に電話を入れて、受付のスタッフに当日のキャンセルを伝える。何に配慮してなのか、受付の社員達はキャンセルの事由については毎回特に訊いてこない。誰かに心配して欲しかったが、体調不良だと伝えるタイミングもないのであれば、同情の言葉を聞けるわけもなかった。
語学教室への電話を切った直後に、スーズのことを思い出した。
いつでもかけてきていいと云っていた。確かに憶えている。
けれどまさかそんな言葉を真に受けて、昨日の今日で本当にかける人間がいるはずもない。そう考え、とにかく眠ろうと寝台 に潜り込んだ。既に長い時間眠った所為ですぐには寝つけなかった。
不意に孤独の冷気が体を襲ってきた。どうしようもなく寂しくなってきて、急激に心拍数が上がったような気がした。胸が痛い。自分がいなくなっても、誰一人困らない。何一つ揺るがない。アールも今日、自分が来ないことなどまるきり気にしないだろう。
スーズから云われたことは頭では理解している。でも、まだアールからは離れられない。価値のないこんな自分を、時々でも、嘘でも、好きだと云ってくれる。気持ちがなくても週に一度は朝まで一緒にいてくれる。そんな人間がまた見つかるだろうか。
観たくもないのにテレビを点けた。ただうるさいだけだったが、気は紛れた。
午後七時過ぎに電話があった。ユニからだった。
藁にも縋る思いで電話に出た。
「明日朝一でC社に関するデータ全て見せてもらえませんか?俺が訪問行って来るんで」
挨拶もなしにそう切り出され、ほんの僅かでもこの男から体調を慮る言葉が聞けるかと期待した自分の莫迦さ加減を呪った。間をとってハルは必死で理性を引き出そうと試みる。
「・・・明日は出社するけど」
「チーフに許可は得てるんで、もうこの仕事は俺のものですよ」
ハルは深く溜息を吐いた。
「俺のパソコンを開けばフォルダがあるはずだ。今までもらった名刺はデスクの右端のファイルにある」
「はい、それじゃ」
「あ」
あっさりと電話を切ろうとする相手の気配を感じ、ハルは焦った。
「何です?」
「・・・今、帰り?」
「ええ」
「そうか。あの・・・お疲れ」
ユニは何も応えない。彼の後ろで電車が行き交っている。かちっという乾いた音がして、彼が息を吸う音が聞こえた。煙草を咥える姿が眼に浮かぶ。
「で?」
「え」
「用があるんならはっきり云って下さい」
「・・・別に。ただ、その、今日の仕事はどんな感じだったかなって」
「ああ、病人を抱きに行くつもりはありませんから期待しないで下さいね。感染 されたら迷惑なんで」
ユニはハルの言葉の裏を読んだという風に薄ら笑いを滲ませた声でそう云ってきた。
「何云ってる」
「あんた、体調管理もそうですけど、怪我して出社するのも大概にして下さいよ。当日に面談や訪問が入ることだってあるんですから」
「そんな大きな怪我して来たことないだろ」
「六月の終わりに一度、ひどい顔で出社して二週間内勤だけしかさせてもらえなかった時あったでしょ」
アールの彼女からの電話に出て、半殺しにされた時のことだ。流石にあの時の怪我は誤魔化しきれなかった。
「・・・あれは、道で喧嘩に巻き込まれて」
「そんなにDV癖のある今の彼氏がいいんですか?」
ハルは声が出なかった。
「それとも彼氏じゃなくて単に弄ばれてるだけとか?そうだ、その辺の話、詳しく聞かせてくれるなら、今から会いに行ってもいいですよ。最寄駅何処です?」
「ふざけるのも大概にしろ。もう切るからな」
そう云って勢いに任せて電話を切ると、携帯電話を床に投げようとした。が、思いきれず、寝台の上に放り投げるにとどめた。
本当は今日一日、自分に向けられる誰かの声を聞きたくて仕方がなかった。
ユニに来てもらっても良かったのかも知れない。
少し嗤われるくらいで、今夜寝台に温もりが得られるならそうすべきだったのかも知れない。
自分はすごく弱い人間だということがハルは分かっていた。
ユニのような最低の男でも、アールの代わりにしたいと思う自分がいた。微塵もあの後輩のことなど好きではなかったが、勢いに任せて電話を切ったことをしばらく本気で後悔していた。
ハルの辞書に愛の文字はない。
でも一つだけ愛を知っている。自己愛だ。
母の姿を見てきたから、その愛の形だけはよく知っている。
『そんなんじゃ周りから認められない』 という言葉は『そんなんじゃ私はあなたを愛さない』という意味と同意義だった。あなたのため、と云いながら息子である自分の中身を作り変えて自分を満足させようとする母の内面に、ハルはある時から気づいていた。
他人に向ける本物の愛なんか知らない。
そんなものが本当にこの世にあったとしても、なかったとしても、そんなことはどうだっていい。
たとえ一時でも、偽っていない本当の自分に触れてくれるなら、この下らない自分の存在を許してくれるなら、その後で暴力だろうと狂気だろうと自分は請け負う。
もしそういう相手を選ぶのがいけないと云うのなら、アールやユニから離れるべきだと云うのなら、スーズのように自分を理解してくれる人間がいてくれなければ、この孤独感には勝てない。
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