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第51話

十日ぶりにスーズに会った。風邪をひいた翌週の水曜日、語学教室の受付でのことだった。 いつものことだが、ハルは挨拶の延長で受付の女性スタッフに引き止められていた。 廊下の角を曲がってやって来たスーズはハルに気づいた途端、当惑した様子で足を止めた。ハルが眼を逸らせば、そのまま彼は立ち去ってしまいそうだった。 だがちょうどそこでスーズも別の女性スタッフに呼び止められた。書類を見ながら何か事務連絡のようなやりとりをしている。ハルは一瞬安堵したものの、スーズが先に話を終えてここを出て行ってしまうのではないかと気がそぞろになった。彼を引き止める真っ当な理由を、今の自分は持ち合わせていない。 だが驚いたことにスーズは自分の用件が済むと、ハルの方に近づいてきた。若干気まずい空気に立ち向かうかのような雰囲気があった。 「こんばんは」 「・・・あ、うん」 スーズに話しかけられると、女性スタッフの声はもうハルには聞こえなかった。 「体調はいかがですか?」 「え、あ、いいよ。ものすごく・・・元気だ」 「そうですか。良かったです」 沈黙。 「では、さようなら」 大真面目にそれだけで、その場から抜け出そうとするスーズを、嘘だろ、という心持ちでハルは引き止める。 「待て待て待て。それだけ?」 「・・・と、いうのは?」 「だから・・・その、そんなすぐ帰らずに、当たり障りのない話題の一つや二つ、する時間ぐらいあるだろ?」 ハルが喋り出したことで緊張の糸が緩んだのか、スーズの眼に少し柔らかい感情が宿った。 「ああ、ええと、そうですよね、すみません。少し考えたんですけど、何を話したらいいか迷ってしまって」 「だめだな。英語でもスモールトークってあるだろ?ビジネスの場面ではそういうので場を繋がなきゃならないことも多いんだぞ。これは万国共通だ」 「そうか、苦手なんて云っていてはいけませんね」 スーズは必要以上に真面目な顔つきで云った。 「そうだよ」 「こういう時はどんな話題を提供すべきでしょうか?教えて下さい」 「え、・・・ああ、何でもいいんだよ。ほら、たとえば寒いですねーとか、そういう天気の話とか」 「ああ、天気の話からきっかけを掴むというのは聞いたことあります」 スーズは受付の奥にある大きな窓硝子に眼をやった。 「・・・既に夜ですね。ええと、今日は、曇ってましたね。日中の気温は十度ぐらいだったと思います」 一体、忙しい彼を引き止めて自分は何をさせているのだろうとハルは思った。スーズにとって、この時間が有意義なはずがない。けれど、このどうでもいい短い会話をしたことで、二人の間の空気が和らいだ。 「もういいよ」 ハルは何となく笑ってしまった。顔を合わせなければ決して生じなかったであろう空気に安堵する。そう、自分はこういう会話がしたかった。 「先々週かな。お前、水曜に来なかったから、気になってた」 「水曜も来てますよ。ただ今は、七時前までのレッスンしか取ってないんです。でも来週からこの曜日に予約を入れるのはやめようかと思っていて。学校の講義が終わったら走らないと電車に間に合わないので、ちょっときついんですよね」 「そうか。・・・じゃあ、なかなか会うことも、なくなるな」 自分でそう云いながら、ハルは自分の手許から何かが零れるような錯覚に陥った。 何故だか分からない。ちょっと前までこの男に消えて欲しくてたまらなかったのに。アールの結婚と母の話をしたあの日から、いつも頭の片隅でスーズの声がする。一体彼はこの体の内側に、何を仕掛けたのだろう。 「あのさ、この前はごめん。謝る。冷静になって考えてみたら、どうかしてた」 ハルは自分からその話題に触れた。予想していた通り、スーズは何の話かすぐに察した様子だった。 「いえ、あなたが謝る必要はないんです。私の方こそあの時はすみませんでした」 スーズはこの話題についての返答をいくらか事前に考えていたようだった。 「私が傲慢だったんです。あなたの気持ちを理解できるだなんて思い上がって。あなたは何の心の準備もしていないのに、一方的に」 「けど、分かろうとしてくれたんだろ?」  ハルのその問いかけにスーズは意外そうな顔をした。 「誰ともあんな話したことない。よその家の親のことなんて普通はみんな批判しないから。だからあそこまで突っ込まれたのは初めてで。・・・うん、何て云うか、すごく混乱した」 「嫌な人間ですよね、私。別にあなたから相談されたわけでもないのに、知った風なことばかり云って」 「別に嫌じゃない」 ハルは本心からそう云った。 「いや、あの時は嫌だったよ。執拗(しつこ)いって思ったし、それにショックだった。でも、もう大丈夫だから」 敵意も下心もないことを分かってもらおうと、ハルは慎重に笑顔をつくった。 「今度何かおごる。酒は?呑めるの?」 「ええ、少しですけど」 スーズの方でも緊張感を綻ばせた気配がした。 その時、授業開始前の音楽が流れ出し、フロアの空気が変わった。 「話してるところ、あいつに見られたらまずいよな」 口に出さずともアールのことを云っているのはスーズにも伝わっていた。 「アールなら今日はいませんよ」 やおらその名前で揺さぶられ、ハルは顔を上げた。 「先刻(さっき)小耳に挟んだんです。体調不良だとかで」 「・・・そうなんだ」 「レッスンが始まりますね」 「また連絡する。じゃあな」 別れの挨拶もそこそこにハルは踵を返し、レッスン室へ続く廊下とは反対の出口へ足早に歩き出した。 「ハルさん」 即座に立ち去ろうとするハルを強めの声でスーズは呼び止めた。 「レッスンにいらしたんじゃないんですか?」 「違うよ。ちょっと気になることがあって受付に立ち寄っただけで」 仕事の時、クライアント相手にそうするように、ハルはスーズの話に明るく応じた。 「そうですか。でしたら、私も帰るところですから。下まで一緒に降りましょう」 「ああ、ちょっと用があって急いでるからさ。ほんとごめんな」 「お話があるんです。すぐ済みますから」 本当は急ぎたかったのだが、ちょっとしたこの誘いを断って、今先刻(さっき)持ち直したばかりの脆い関係を傷つけたくなかった。ハルは了承して無理に微笑んだ。 「じゃ、急げよ」 努めて明るくスーズを促し、歩き出した。エスカレーターを駆け下りて行きたいのを堪えて、頭の中でアールの住むフラットまでの道程を走ることばかりを考える。スーズと久しぶりに会ったのに、話題など全く出てこない。 「アールは部屋に入れてくれないと思いますよ」 「え、何?」 びくりと反応した後で、ハルは白々しく訊き返した。ハルとしばらくの間眼を合わせた後、スーズは下を向き溜息を吐いた。 「呼ばれてもいないのに行くべきじゃない。彼女が来ていたらどうするんですか?」 「あいつの部屋に行こうなんて思ってないよ」 「そうですか。じゃあこれから、下のカフェに付き合ってくれませんか?今日のレッスンの復習に付き合って頂きたいんです」 ハルは面喰った。 「用があるって云っただろ。第一お前、いつも忙しいって云ってたじゃないか」 「勉強なら何処でもできます」 スーズの言葉に気を取られていたハルは、エスカレーターが次の階に到着しかけていることに気づくのが遅れた。寸前になって、前、とスーズに云われたものの、一瞬間に合わず、後ろを振り返っていたハルは突然足場を失って斜め前につんのめる形になった。咄嗟に踏み留まろうと前に出した自分の足につまづき、結局転倒してしまった。 「すみません、声をかけるのが遅かった」 責任を感じたような云い方をスーズにされ、ハルは恥ずかしくなった。 「あの、大丈夫ですか?怪我は?」 「・・・だっさ」 そう呟いた後で手と膝の痛みを感じた。少し擦りむいたかも知れない。けれどスーズに余計な心配をかけたくはないのでどこも気にならないという振りをした。スーズが手を差し出してきたので掴まって立ち上がるのが礼儀かとも思ったが、身振りでそれを断った。 「ださ、って、どういう意味ですか?」 言葉の意味を純粋に訊ねられて、この男が外国人であることを改めて認識する。スーズといるとアールといる時以上にそのことを意識しなくなるのは、やはり彼のこの国に馴染んだ外見の所為だろう。 「憶えなくていい」 普通にしていればこんな場所で転ぶことなど滅多にないのに。 カフェの手前まで来たが、結局ハルは中に入るのを躊躇った。出入口付近は人通りがあるため、スーズを促して店のウィンドウに身を寄せる。 「・・・ちょっと様子を見に行くだけ。追い帰されると思うけど、そしたら帰ればいい」 アールの名前を出さなくともスーズには通じた。いくらか予想はしていたという感じで軽く息を吐き、前で軽く腕を組んだ。 「追い帰されると分かっていて行くんですか?そういうのがあなたの悪いところです。本当は今日、レッスンだって予約してたんでしょう?水曜の七時ですよ?」 「心配してくれてるのは分かってる」 云い返すような口調になってしまった。彼が何故自分をこんなに心配してくれているのかは、結局のところ未だに分かっていない。 「私があれこれ云う立場でもないですよね」 スーズは自分を納得させるように静かにそう云った。呆れているのだ、とハルは思った。心が軋んだ。 「では」 「待ってよ」  去りかけたスーズの手をハルは思わず掴んだ。このまま行って欲しくない、と強く思った。 「お前とはもう一度ちゃんと話したかったんだ。先刻はお前の方から声をかけてくれてありがとう。もう口も利いてもらえないんじゃないかって思ってたから。今日は無理だけど、また何処かで話せたらいいなって・・・思って」  ハルの言葉がスーズは心底意外だったようだ。スーズは掴まれた手を嫌がる素振りは見せなかった。手を繋いだまま話す男二人を数人の通行人が興味深げな眼で見てくる。手を握ったのはやり過ぎだったか。でもこうしないと、スーズを引き止められない気がした。本気で何かを伝えるのはどうしてこうも難しい。 「・・・ごめん、あの」 「アールの具合が大したことなければいいんですけど」 彼の方がずっと歳下なのに、その笑顔に包み込まれる気がした。 意見は違っても、最終的に子供の意思を尊重する父親というのはこういう温かさを持っているのだろうか。自分はそんな存在感のある父親像を知らないけれど。 スーズみたいなこういう優しさがもっと身近にあったらと思う。云うことは云うけれど、こちらが誠意を持っていればちゃんと信じて見守ってくれる。こういう友達がいたらきっと寂しくないのに。 「・・・俺のこと、莫迦だって思ってるだろ」 「でも前よりも、今の方があなたを好きになれそうです」 スーズがそう云ってハルから離れた。口許の笑みはそのままだった。 「では気をつけて下さいね」 「あ、スーズ」 その名前を呼んだ自分に少し驚いていた。呼びかけたのは初めてだった。 「・・・また電話する」 「分かりました」 スーズはすぐにそう応えて微笑んだ。彼はいつもどこかに、用心深さを忍ばせていたが、もうそんな気配はどこにもなかった。

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