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第52話
「何で勝手に来た?」
玄関口でアールにそう問われ、本当に何故来たのだろうとハルは思った。この男が自分を待っているわけがないのに。迷惑がられることは分かっていた。運が悪ければ彼女と鉢合わせになって、後からアールに苛烈な制裁を加えられるかも知れないということも頭にあった。
それでも、心配で来てしまった。ひょっとしたら何も云わずともここに来るものと思われているのではと思った。そのほんの僅かな可能性のために自分はここへ来た。
アールはひどい恰好で出て来た。髪がくしゃくしゃなのはともかく、蒼白と云うべき顔色で、瞼は腫れぼったく、口唇 はかさかさだった。毛の色が薄いので分かりにくいが髭も剃っていない。
「水曜だから、一応。・・・それに体調が悪いって聞いて、心配で」
「その通りだよ。知ってるなら今日は大人しく帰れ」
アールは扉を手放した。扉を引き寄せるのではなくただ手を放しただけというその動作がハルに室内へ入り込む隙を与えた。アールには扉を最後まできっちり閉めて施錠し、ハルを追い出すだけの余力もないようだった。
ハルが後を追って部屋に上がると、アールは今にも倒れそうな顔色でダイニングの椅子にしがみついていた。下を向き、何かが込み上げてくるのを必死で押さえ込もうとしている様子だ。
「帰れよ、何で入って来るんだ」
「誰かいるのか?」
そう訊ねながらもここに誰もいないことは分かっていた。玄関にはアールの靴以外なかったからだ。
部屋の中は暖房が効き過ぎていて、歩いてここまでやって来たハルには少々暑いぐらいだった。普段は壁側にある加湿機が寝台のすぐ傍に置いてあり、給水ランプが赤く点灯している。そして何より饐 えたような酸っぱいような、何とも云えない臭いが部屋にたちこめていた。
臭いの正体と出所が気になりつつもハルはコートを脱ぎ、食事は摂れているのかとアールに訊ねたが、彼の反応はなかった。じっとハルを睨み据えて出て行くのを待っている。だが死にそうな顔色と覇気のなさで睨 めつけたところで、ハルをたじろがせるには不充分だった。
道中、ハルは気が急いていたものの、コンビニやドラッグストアで必要そうなものを買い込むのを忘れなかった。買って来たものをテーブルの上に並べた後で、ハルはビニール袋を片付けるために、キッチンへ向かおうとした。
「そっちに行くな」
アールの声に振り返ったのと同時に、何か柔らかいものをハルの足が踏んだ。びっくりして足許を見ると先程からの臭いの正体に気づいた。薄黄色の吐瀉物がそこに広がっていた。一瞬信じられなかったが、ここがキッチンとトイレの間にある廊下だと考えると納得した。トイレに行き着く前にアールはここで吐いてしまったのだろう。ハルの靴下の蹠 にじんわりと生温かい液体が染み渡っていく感覚があった。
「・・・お前、来るタイミングが悪いんだよ」
それだけ云うと気力が尽きたのかアールはもう何も云わなかった。ハルも何も云わずに黙って靴下を脱ぎ、洗面台に置きに行った。それからトイレへ行って、トイレットペーパーをなるべくたくさん持って来るとそれに吐瀉物を浸み込ませ、かき集めて便器に流しに行った。除菌用のスプレーか何かかけて拭けば完璧だったが見当たらなかった。その後で洗面所に戻って脱いだ靴下を洗った。そして両足とも裸足になってから寝台 の上でぐったりしているアールの元へ戻った。
「帰れよ」
アールは心底疲れきった様子で尚も云った。そして無理をして立ち上がると、洗面所へ向かった。嘔吐 きながもうがいをするアールに対し、ハルはなるべく控えめに声をかけた。
「吐くほどひどいんだろ?放っておけない」
ハルはアールに買って来たものを示し、何か食べられそうな物はあるかと訊いてみた。アールはそれらを一瞥し、黙ってパックのジュースに手を伸ばした。ハルが代わりにそれを手に取り、ストローを差してから渡す。その時彼からは起きぬけの汗の匂いがしたが、体調が悪いのなら熱の所為で入浴できないのも分かる。長いことアールは無言だった。寒気がするのか少し体を震わせ、毛布を体に巻きつけ、そっぽを向いて寝台 に横になった。
ハルはまず加湿機の水を補充し、その際眼についたキッチンのシンクの中にあったグラスや皿を洗った。細々とした雑用が眼に入らないだけでも、少し気が楽になるのではないかと思ったからだ。敷布 は一度替えたらしく、洗面所のかごに衣類と共に放り込まれていた。まだ七時台なので洗濯機を動かしても問題ないだろう。洗濯物を一つ一つ確認してから放り込んでいった。
用事を済ませたハルが再び寝台の傍へ行くと、気配を察してアールが瞼を開いた。
「落ち着かない。さっさと帰れ」
「洗濯物を干したら帰るから。他に何かできることある?」
「当たり前のことができない奴の傍にいて、世話をしてやるってのは気分がいいものなのか?」
「俺に嫌われようと思ってるなら、元気になってからにしろよ」
そう云った後でハルは眼を伏せ、床に落ちていたごみを拾って捨てた。
「・・・何されても嫌いになんてならないけど」
アールは顔を上げた。何かにはっとしたのか何なのか。まるでたった今夢から醒めたというような顔をしている。
ハルは新しい体温計を購入してきていた。新しい体温計のパッケージを開ける。電源を入れ、彼のスウェットの首元から滑り込ませた。体に触れた際に熱が高いことは充分感じ取れたが、正確な数値を知りたかった。寝台の傍らに控えて音が鳴るのを待つ。よく見るとアールは髪も肌も脂ぎっていて、着ているスウェットからもじわりと汗や皮脂の臭いが漂ってきた。
アールの熱は三十八度を超えていた。
「今がピークだね」
数値は伝えずに電源を切る。体温を自覚させて弱気にさせてはいけないと思った。
体温計をテーブルの上に置こうと坐ったまま後ろを向くと、アールの手がハルの顔に触れた。前に向き直ると彼はその手で耳朶をなぞり、髪を撫でてくる。アールの優しい手つきに慣れないハルは緊張した。
非常に珍しいがこういうことをされる時がたまにある。機嫌が良いタイミングで更に酒が入った時か、そうでなければ寝惚けている時で、素面 の状態でこんなことをされたのは初めてだった。ハルは体温計を持ったまま、しばらくじっとして視線を合わせたり、自分の手許を見たりしていた。
「今日、スーズに会ったか?」
たまたま俯いている時にそう訊ねられ、ハルは姿勢を変えないまま不自然な間が生じる前に口を開いた。
「いや、あいつ水曜来ないじゃん。最近」
嘘を見抜かれれば何をされるか分からない。どこかのタイミングで乱暴に髪を掴まれてもおかしくない。そんなことを考えている時点で、もうどう転んでもこの関係性はいい方向へ向かうことはないと自覚する。
やがて、アールは腕を維持しているのがつらくなったのか手を離した。仰向けになり、ほんの僅かな間眼を閉じていた。
「お前、俺のことを本当は嫌いなんだと思ってたけど」
「・・・へえ、嫌われる覚えがあるの?」
「全部お前が悪い」
「はいはい、全部俺の所為だよ。お前の体調が悪いのも、今日が水曜日なのも、空が青いのもみんな俺の所為なんだろ」
「ふざけるな」
「お前こそ、本当は俺のことが嫌いなくせに」
ハルは立ち上がって、体温計を片付けに行った。僅かでも喧嘩に発展しそうな気配があれば、すぐに帰るつもりでいた。病人を徒に消耗させる気はない。
いつでも帰れるようにごみ箱やティッシュ、常温のミネラルウォーターをナイトテーブルの上に用意してアールが歩き回らなくても済むようにした。
洗濯物があとどのくらいで終わるか確認しに行こうとするとアールに、
「お前が他の奴と付き合うから腹が立つんだ」
と、唐突に云われた。
「何だよそれ、どういう意味?」
「お前は他の誰かとも同じようなことをしてる」
「同じような、って」
「他の誰と寝てるんだ」
ぎょっとして即座には反応できなかった。
ユニのことに気づかれたか。だが彼は目立つところに自分の痕跡を残さないはずだ。そういう行為を好まない。使い捨てのティッシュにわざわざ自分の印をつけることがないのと同じだ。
表情の隅々までアールに観察されている気がしてハルは硬直したまま動けなかった。眼を見られたら、ハルはアールに嘘を吐けない。他の人間の視線はいくらでも躱せるのに。身も心も牛耳られているというのはこういうことだと思う。
「時々、ちょっとした間とか、動き方が変わってることがある。そういう日は他の奴と寝て日が浅いっていうのが分かる。表情にも何となく余裕があるしな」
アールが自分のそういう細かい変化にまで眼をつけていたとは思わなかった。ハルは立ち尽くしたまま自分の手許を見つめる。スーズの言葉を思い出した。そうだ、本当に悪いことをしているのはこの男の方なのだ。
「・・・他の誰かと寝てるのは、お前も一緒だろ」
「俺はいい。お前はだめだ」
悪びれもせず、むしろ当たり前という調子で云われた。
「何云ってるんだよ?そもそもちゃんと付き合ってるわけでもないのに、責められる筋合いない」
「お前の方から俺を誘ってきたからだよ」
「お前の方こそふざけるな。忘れたのかよ。あの日呑みに誘って来たのはお前の方だろ」
「その後だよ。何であんな目に遭ってまた俺のところに来た?」
ハルは最初に過ごした水曜日の夜のことを云っていたが、アールはその翌週の水曜のことを云っているのだった。
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