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第53話
あの経験は忘れられない。
語学教室に通い始めてしばらくしたある水曜日、最後の時間帯のレッスンをとっていたハルにアールは、
「良かったら呑みに行かない?」
と耳打ちしてきた。英語ではなかった。密かにこの男に思慕を募らせていたハルは、驚いたのと同時に、この時一気に彼との距離が縮まった気がして舞い上がってしまった。
「外では英語じゃなくて普通に喋って。俺もそうするから」
アールの言葉遣いが俄かには信じられないほど自然だったので、ハルはどうしてそんなに言葉が巧いのかと訊ねてみた。だが彼は、
「一生懸命勉強しただけ」
としか答えてくれなかった。
駅の近くのバーに入った時、ちょうど店内でハルの知っている曲が流れ出した。
「ボビー・ティモンズの『モーニン』ですね」
普段はジャズなど聴かないハルだったがこれだけは知っていたので、そう云いながらカウンター席へ坐った。
「へえ、ジャズ好きなんだ?」
「はい」
好きというよりも単に聴いたことがある程度だったのだが、少しハルは背伸びをした。相手に合わせて大人っぽい話をしなければならないと思ったのだ。大学の時、この曲を聴かせてくれた友人に礼を云いたい気分だった。話題の種がよそから降ってきたことで今日の自分はついている、とこの時までは思っていた。
「でもこの曲、朝って感じはしないですよね。タイトルの割に」
アールが煙草を胸ポケットから取り出すのを見て、店員が灰皿を差し出してくれた。
「朝じゃない」
「はい?」
「この曲のモーニンはmoanの現在形で朝って意味じゃない。似てるけど」
「え・・・そうなんですか?」
「moanの意味は苦しんで呻くってことだよ。だからこの曲のタイトルは呻いてる、とか呻き声って意味だ」
「・・・呻き声?」
「歌詞を読めば分かる。不安と孤独に苛まれて絶望してる男の独り言みたいな歌だよ」
間があった。曲名の意味も知らずに得意げにしていた自分をひっぱたいてやりたかった。
「・・・すみません、勉強不足で」
アールは笑いながらドリンクのメニューを差し出した。
「俺だってジャズはそんなに詳しくない。そんなことより別の話をしよう」
ハルはジントニック、アールはブランデーを呑みながら、どうでもいい話をし続けた。互いに眼で何度も交信を試みて、通じ合えるかどうかを探り合った。いつここの国に来たのかという問いに対しては「もう随分長く」としかアールは答えなかった。それから彼はハルの英語の良いところと改善点を教えてくれ、水曜日の六時以降は休憩の順番の関係で、いつも自分がハルのレベルの対面レッスンを担当しているのだということを話してくれた。
アールの視線が全身を滑るのを、ハルは緊張しつつも心地良く感じていた。誰かに欲望の入り混じった眼で見られるのは悪い気分ではなかった。相手がアールのような男なら尚のことだ。
「俺は好きになったら相手の性別は関係ないから」
という言葉をアールの口から聞いた時、ハルの純粋な密心 は情欲の火に変貌を遂げた。
珈琲の話になった時、手動のミルで豆を挽くのが好きだと云うアールにハルはちょっとした質問をした。
「やっぱり豆を挽く時の匂いはいいですよね。美味しく淹れるコツってあるんですか?」
相手の眼に何かがちらついたのをハルは感じ取ったが、それが恐ろしいものだという直感は働かなかった。
不自然な間が空いたので、また自分は何かおかしなことを云ってしまったのかとハルが不安になっているとアールは何の前触れもなく、
「君は眼の色がきれいだよね」
と云ってきた。
「え」
「前髪、もう少し切ればいいのに」
「いえ、だって・・・変な色でしょ。よく云われるんです。髪が長いと、暗い印象になるとは分かってるんですけど」
「そんなことない。きれいだよ。よく見せて」
アールの手が伸びてきて、ハルの前髪をさらりと上げた。
意味のある動作に感じられた。既にアールとは無言の交信に成功していた。眼で放ったシグナルが通じ合ったことにハルは胸がいっぱいになっていた。
「実はすぐそこのフラットがうちの語学教室を運営している会社の社員寮なんだ。ちょっと寄って行かない?大したものじゃないけど、珈琲を淹れるのに使ってる道具を見せてあげる」
「いいんですか?」
珈琲は大好きだが、もちろんそんなのが口実であることは分かっていた。
バーから五、六分歩いたところにアールのフラットはあった。道中ハルはずっとどきどきしていた。その時アールがつけていた香水はしっとりしたウッディな香りの中に、ほんの少しの甘みが含まれていて、大人の色気に満ちていた。表面的には、アールの態度はとても優しく、落ち着いて見えた。どこをどう見ても彼は完璧だった。
アールはハルよりも先に玄関を抜けて室内に入って行ったのに、なかなか部屋の燈を点けてくれなかった。夜目が利かないハルは足をぶつけないよう、暗闇の中を探り探り進んだ。
「あの」
と声をかけたところで唐突に体を抱き止められた。
その瞬間、人生でずっとこういうチャンスを求めていたことを自覚した。相手の方から手を伸ばして抱き締めてもらうことこそ、ハルの最大の望みだった。そしてアールがその初めての相手だった。
「・・・びっくりした」
ハルがそう呟いた時、まだアールは純粋に笑っていたと思う。暗闇で彼がほんの少し屈み込む気配がして、口唇 が軽くぶつかりあった。それが何かの間違いでなかったことは、その後の沈黙で分かった。何も見えず相手の輪郭さえ辿れないままだったが、ハルの心臓は爆発しそうだった。この時までは純粋に嬉しかった。
「こんな経験ないんです。その、ちょっと抱き合うぐらいはこれまでもあったけど」
「うん、今日もちょっと抱き合うだけだよ」
軽い口調でそう返され、当然のような手つきでジャケットを肩から落とされた。下に着ていたシャツの裾をたくし上げられ、直に背中を撫でまわされながら何の躊躇いもないキスが再び下りてきて、ハルの心は容赦なく解 かれ、掻き乱された。そして今度は少しはっきりとした怖さも感じた。アールの行動には、ハルの反応を確かめようとする気配が全くなかったからだ。
舌を入れ込まれながらのキスの最中に、相手を押し止めるようにしてハルは口を挟んだ。
「あの、俺、最後までしたことなくって。キスだって久しぶりだし・・・だから、その」
「まさか、ここまで来ておいて逃げるつもりじゃないよな?」
一際低く重くなったその声に、ハルは怯んだ。
その隙を突かれた。再度強引に口唇を塞がれて、言い淀んだ言葉は形にならなかった。力尽くで寝台に誘 われた後は、もう逃げられないと悟った。
この時一応、アールは挿入前にジェルを出してはくれたのだが、その手際があまりにも雑だったためハルは不安になった。こんな下準備で大丈夫なのかと訊きたかったが、既にそういった言葉が云い出せない空気に呑み込まれていた。
ひどかった。初めてのセックスは甘くもなければ情愛のかけらもないものだった。今まで味わったことのにない痛みにハルは声を上げ、無我夢中で抵抗した。だが喚き散らそうが暴れようがアールは途中でやめてはくれなかった。後孔の入口付近にしか塗り込まれなかったジェルは、アールが性器を押し挿 れるためのものであって、ハルの苦痛を軽減する役割はほとんど果たさなかった。
うるさい、と云われ頭を押しつけられて枕に顔が沈む。同じ男なのに手も足も出ない。あらゆる抵抗が無駄だと悟り、ハルはそのままの状態で泣き出した。
そんな目に遭っているのに体の敏感なところを這う物理的な快感に容赦なく囚われた。喉から女のような声が漏れ出た時、自分の体がこんなにも容易に内包している感情を裏切るのかと絶望した。
突き上げられて引き潮になぶられて受ける刺激全てが下腹部に滴下した。体が爛熟した果実になったように温く乱れている。途中、体が宙に浮いた感覚に襲われて突き落とされたと思ったら吐精していた。
我に返った後で、口惜しさと惨めさと痛みのために全身で泣いた。
何故、この歳にもなって相手の本性が見抜けなかったのかと思う。こんな目に遭ったことが信じられなくてただただ絶望していた。
初めてだと事前に伝えたことは、アールにとって何の意味もないものだったらしい。全てが終わった後、彼はそれを本気にしていなかったと平然と云ってみせた。しかも全てを終えた後の彼に、謝罪する気持ちはこれっぽっちもなかった。
「ひどい目に遭ったと思ってるのか?淫乱のくせに」
確かに自分があまりにも簡単に流されたから軽く見られたというのはある。けれどこの一度で淫乱などと云われるのは心外だった。
「違う」
「被害者面するな。自分に責任がないとでも思ってるのか?初めてだったら普通はもうちょっと慎重になるもんだ。俺がどういう趣向の人間かってことは話したよな?そんな奴の部屋に夜中に上がり込んで何もないわけがないだろ。のこのこついて来るなんて軽率にもほどがある。本音じゃ期待してたくせに。発情した猫みたいだった。第一、その歳で未経験だなんて、冗談だと思われても仕方ない」
後半はほぼ嗤われていた。この男を殺してやりたいと思ったが力で敵うわけもない。被害を訴えることもできない。こんなことは誰にも云えない。云いたくない。
死にたくなった。恥ずかしくて、もしここがフラットの一階ではなかったら今すぐ窓から飛び降りたいぐらいだった。
いい加減泣きやめと馴れ馴れしく肩に触れられた時、ハルは身を捩って思いきりその不潔な手を振り払った。アールのことも、自分のことも許せなかった。
至極面倒臭そうにアールは溜息を吐き、一度その場を離れた。しばらくして戻って来たかと思うと、彼は強引にハルの顔を上げさせ、冷水で絞ったタオルを押し当ててきた。再び彼に触られた時はまた何か危害を加えられるのではと恐怖に慄いたが、直後のひんやりとした感覚は目許に心地良かった。頬や額、瞼にタオルを当てられて、顔の熱が引くと同時に、嗚咽も微かなものになっていった。その後で彼はテーブルの上のマグをハルに手渡した。温かいお茶だった。枯れた喉に今度はじんわりと沁み入っていく。ハルが飲み物に一度口をつけたのを見届けると、
「帰りたければ帰っていい」
と、一言云ってアールは立ち上がった。今夜のことを、口止めすらしなかった。そうは云ってもハルは後孔の周辺が痛くて、立ち上がることができない。時刻は午前一時を廻っていた。
ずっと裸だったハルを見て、寒々しいと思ったのかアールはその辺にあったブランケットを肩にかけてきた。
信じられないことに真正面からその顔を見据えた時、アールのことを憎みきれない自分にハルは気づいた。この男に対し募らせてきた感情と、それを自尊心と共に踏みにじられた悲しみがせめぎ合い、再び涙が出てきた。
「今夜しなくても、この先いずれ誰かとすることだっただろ。それにお前は優柔不断で怖がりだ。どの道自分じゃタイミングを決められなかった。そういう性格じゃ女を捕まえるのは無理だろうな」
一方的に云われたその言葉をどうしても否定できなかった。同じようなことを母からも云われた経験があったからだ。
「お前、俺の何を知ってるんだよ?」
「二時間も呑んで話せば大体の性格は分かる。だからその年齢まで未経験だったってのは、まあ分かるよ。でもそういう性格、俺は嫌いじゃない。それに、お前は眼がきれいだ。それで気に入ったんだよ」
そう云われてハルは不覚にも、言葉が返せなくなった。
「お前の声は前から気に入ってた。でも今日話してて、それより眼がいいって思ったんだ。その眼をもっと近くで見たいから、ここへ連れて来た。意識してないのか?お前は眼で他人を引き寄せてるんだよ、今も」
彼ほどの外貌を備えた人間に見た目を褒められることは、虚栄心を引き出されることだった。それに何より、好き、と云われたことが先程の行為に意味を与えてくれた。それがどの程度の、どんな『好き』なのか愚かにも確かめもせずに。
彼の罠にかかったのはこの時だった。
好意を抱いた相手と、いいところまで辿り着いたことはこれまでもあった。けれどいずれもハルは、自分でチャンスをふいにしていた。同性に性的な意味で好意を抱かれること自体貴重なのに、直前で怖くなって逃げ出してしまってばかりいたのだ。アールの云う通り、多少強引な相手でなければ自分は変われなかったのかも知れない。
寝台の傍で立ち尽くしているハルを見て、アールは寝台のスペースを空けた。
どうしても逆らえなかった。今しがた自分を踏み躙ったばかりのこの男の体温でも、今夜確実に傍にいてくれるなら縋りたい。
寝台に手をつくと温かかった。どんなに冷淡な男にも血は通っている。
あの時、自分を閉じ込める檻に自ら入って行ったのだ。
ハルは翌週の水曜も再び同じ時間にレッスンの予約を入れた。アールは何事もなかったかのようにけろりとした顔でやって来てレッスンを始め、ハルの視線を無視し続けた。やはり自分はあの一度きりで捨てられたのかと失望と諦めを抱いた。
その日、アールが一、二分早めにレッスンを切り上げたのも、自分と過ごす時間を早く終えたい意思の表れとハルはとっていた。
レッスン室から廊下へ出たところで、一緒に部屋を出て来たアールに腰のあたりを強めに引き寄せられた。
間近でアールの眼を見た時、彼が先週の水曜のことを忘れていないと感じ取った。
ハルはその日、彼が仕事を終えるまで待っていた。
二度目の機会を作り、二人の関係を定着させたのは確かに自分の方だった、とハルは思い直す。
アールを受け入れている時は痛くても、孤独ではない。
誰かの体温を知ってしまうと、もう一人には戻れなかった。
それに、付き合っていく中で本当はこの男も寂しい人間なのだと気づいた。
彼女からの電話にはいつも、話の分かる優しい男を演じている。だがそんなのは嘘だと思う。本当は恋人の女のことを激しく求めたいのに、失いたくない、どうしたらいいのか分からないといった感じだ。自分の意思が喉まで出かかっているのに、それを云ってしまったらもう二度と彼女と会えないという呪いがかかっているみたいに。
そう云えば、今のところあのジャズバーだけが二人で出かけた唯一の、最初で最後の場所ということになっていた。あの最初の夜以降、アールはもう何処にもハルを連れて行こうとはしなかった。
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