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第54話
「訊いてるだろ」
アールは尚も訊ねてきた。体の向きを変えて寝台から両足を下ろした。
「お前を殴ったことも一度や二度じゃない。何でやり返さない?それができないなら逃げればいい。簡単だ。ここに来なければいいし、あのカフェで待つ必要もない」
ハルは黙っていた。何と答えればいいのだろう。
自分でも不思議だ。何故この男に執着しているのだろう。
お前を愛しているから?
そんなことは云いたくない。ハルは愛という言葉が嫌いだった。賭けてもいい。自分は愛という言葉を遣ったことがない。
幼い自分に英語のパズルやテキストを投げつけて、英会話教室に向かう車の中で罵声を浴びせる母が、毎回最後に云う台詞は、
『あなたを愛しているの』
必ずそれだったから。だから愛なんて糞喰らえと思って今も生きている。
「・・・嫌な人間相手にだって情が湧くこともあるだろ」
考えて考えて絞り出した答えがそれだった。アールはそれを鼻で笑った。
「だからだめなんだ、お前は。いつまで経っても逃げられない。お前を無能扱いする母親からもな」
寝台から足を出した時は立ち上がるのではないかと思ったが、アールにそれだけの体力はないようだった。
アールはハルと母親との確執を知っていた。スーズほど関心を持って話を聞いてくれはしなかったが、ちらっとハルが自分の母親の話をしただけで彼は、
『お前、母親が嫌いだろ?』
と、直後にぴたりと云い当てたのだ。それから続けてこうも云った。
『話を聞いてると似てるじゃないか。感情が一方的なところが。お前もそうやって身近にいる人間に嫌われてるかもな』
アール本人が云っている通り、この男と本気で別れようと思うなら、ただ逃げればいい。わざわざ別れを告げに来る必要もない。筋を通さなければいけない間柄ではなかった。
「お前、結婚するって聞いたけど」
話の流れを全く無視してハルは切り出した。
「・・・何だ、急に」
アールは反応し、それから数秒の間があった。
「そうだよ」
そこに罪悪感を抱いているような気配はなかった。それからハルの方へ向き直った。
「やっぱりスーズと話したんだな」
その言葉が大地震の前兆のように感じられてならない。ハルはスーズに実害が及ぶようなことだけは避けたかった。
「俺があいつから無理に訊き出した」
「意外だな。友達になったのか?」
アールはそう云った矢先に、含みのある笑いを漏らした。
「それとも、もうあいつと寝たのか」
「俺が話してるんだから黙れよ」
話の流れを変えようとするアールに対し、やや語気を荒げてハルは云った。
「何だ、その口の利き方は?」
「うるさい。いつから彼女と付き合ってた?」
「お前と知り合うずっと前からだよ」
「その女のこと、好きなのか?」
「当たり前だろ。お前のことよりずっと好きだよ」
分かってはいたが、言葉にされるとつらかった。
「他に何か質問は?」
アールの眼には、強く出たハルの態度を許さない様子がありありと浮かんでいた。暴力を厭わない時の顔だ。
「気が済んだならそこへ坐って手をつけ」
床を顎で示され、ハルは危機感を覚えた。逃げ出そうとした瞬間、予想以上に速い動きで後頭部と肩を掴まれ、引きずり倒された。
「勝手に来て無理矢理上がり込んでおいてその態度は何だ?」
「離せよ、体調が良くないんだろ。寝てろ」
アールの体はやはり熱かった。つらいはずなのにハルの体を放さない。圧し掛かるように力をかけて拘束している。
「お前がナコのことに気づいてることぐらい分かってた。結婚のことはスーズから聞いたんだろ。それで何だ?また自分の扱いが不当だって云いたいのか?」
「違う、お前の口から聞きたかっただけだ。もうここには来ない」
初めてハルは、アールの息遣いから動揺を察知した。
恐怖と不安は変わらずあった。殴られるかも知れない。踏みつけられるかも知れない。
こんなことを云うつもりで今日ここへ来たわけではなかった。
けれど今先刻 、何気なく云われた『だからだめなんだ』というこの男の言葉。
一見、ハルだけを貶めているように見えるがそうではない。
アールは自分の卑劣さに本当は気づいている。
『肝心なところで、自分のような人間と手を切れないからだめなんだ』
そう聞こえてしまったのは、自分のいいように解釈しすぎだろうか、とハルは思う。
けれどもしそうだったなら。その上で、他の誰かを本気で愛しているとその口から聞いたなら。そうしたら今度こそこの男を諦められると思った。
今を逃したらこの男の温もりから、この男を憐れむ自分の気持ちから、また離れられなくなる。スーズが示した、自分の幸せというのはそれらから離れた、その先にあるのではないか。
アールの体重が背中からなくなったところで、ハルはすかさず立ち上がった。振り返りはしたものの、アールの眼は見れなかった。
「お前とこうやって会い続けてたこと、後悔してない。それだけ分かっててくれたらいい。・・・体調の悪い時に来てごめん。もう帰るから」
視線を逸らしたまま、コートと鞄を掴む。
玄関へ行ったところで洗った靴下を忘れたことに気づいたが、裸足のまま靴を履いた。別に捨ててくれて構わない。
そこへアールがやって来た。ちょうど、足許から顔を上げたハルと眼が合った。
アールは何も云わなかった。感情が読めなかった。怒りではない。悲しみなどあるはずもない。彼はただ黙って、ハルが立ち去ろうとするのを見ていた。
鍵を閉めにやって来ただけだ。この男が自分を見送ろうなどと思っているわけがない。
そう考えたはずなのにハルは土壇場で出て行くのを躊躇った。
アールの眼から、あの最初の夜と同じ、無言の通信が放たれているようにこの時ハルは感じた。
肝心なことは、本音は、いつも言葉の外側にある気がする。
早く眼を逸らして出て行かなければ。振り切らなければならない。
何も云われていないのに、どうして引き止められていると思うのか。
何の感情もない青い双眸が胸を突く。
だめだ。このたたきと室内のちょっとした段差を乗り越えて来るのを、アールは待っている。そうすれば彼のペースに持ち込まれるのは分かっていた。それなのに、足が動かない。
約二センチの段差に意思を決めかねているハルを、アールは気長には待たなかった。無造作に引き寄せて口唇をのせてくる。同じ衝動に任せた行為でも、以前ハルが駅前で彼にしたそれよりもずっと手馴れていた。
「今日はそういうのはやめよう。もう帰る」
だがアールの反応はなかった。
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