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第55話

次の瞬間、唐突にアールは小さく呻き声を上げた。同時に手が離れた。 若干眼を見開いて手の甲で口許を押さえている。体の奥から込み上げてくるものを、何とか体の奥へ戻そうとしている気配があった。だが結局耐えきれず、苦悶の表情を浮かべながら彼は間もなく手洗いへ駆け込んだ。嘔吐する声が聞こえてくる。 その場に残されたハルは靴を履いたまま、乗り越えてしまった傾斜二センチの段差を下りた。靴を脱ぐ習慣のない外国人向けの設えだ。だがアールは出会った時から靴を脱ぐ習慣が身についていた。きっと彼女に合わせようと憶えたに違いない。 引き寄せられた際に落とした鞄を拾い、そのまま出て行こうと背を向ける。扉のロックを解除して、把手を掴んだ。 だがそれを押して出て行けない。 アールの様子を見過ごせなかった。こんな状態の彼を、誰もいないこの部屋に一人置いて行くなんてできない。 ハルはコートと鞄を玄関に残し、靴を脱いで再び部屋に上がった。 「大丈夫?」 もともと扉は半開きの状態になっていたが、念のため一度外から声をかけた上で、扉を開いた。狭い個室の中は饐えた臭いで充満していた。だがそんなことは気にならない。アールの背中を見た時、屈んでいる彼を後ろから見るのは初めてだと気づいた。彼はいつも、自信ありげに佇んでいるか、ふんぞり返って坐っているかだったから。 ハルが背中を下から上に(さす)ってやると抵抗するような動きがあった。 「触るな」 「吐くなら我慢しないで全部吐いた方が楽になれる。まだ出そう?」 「ずっと何かが溜まってる感覚なんだよ」 ハルは一旦立ち上がって購入して来たミネラルウォーターのボトルを手洗いの戸口の傍に置いてから、洗面所で手を洗い、そのまま手を拭かずに戻ってきた。 「手伝う」 吐ききれない彼の喉奥に指を彼を入れるつもりだった。 「莫迦か。単なる風邪じゃなかったらどうするんだ」 云う先からアールは嘔吐(えず)いた。 キスをしといて今更何を云っているのだろうと呆れつつ、ハルは引き続き彼の背中を擦った。 「・・・もういいから、本気で云ってる。先刻(さっき)帰ろうとしてただろ。行けよ」 「やめた。一緒にいる。本当につらいなら救急車を呼ぶよ」 とはいえ、アールの症状からハルは大体の見当をつけていた。 普通の風邪ではない。発熱しているが、洟が出るとか痰が絡んだ咳が出るとかいった症状は見られず、その代わり先程から常に腹部に手を当てていた。ハルが買って来たゼリーやヨーグルトにも手をつけず、林檎ジュースだけを飲んでいた。この暖房や加湿の強度も気になる。それから嘔吐。 多分、胃腸炎を引き起こすタイプのウィルスだろう。毎年流行るものだが巷では警戒の声が出始めたばかりで、流行まではまだ間があるはずだった。ハルも一年おきぐらいにこのウィルスには感染しているのでつらさは分かる。 潜伏期間が過ぎるとまず尋常ではない寒気に襲われ、ピークの二日間は酷い吐瀉と下痢に苛まれるのだ。三日目も体の不調は収まらず脱力で動けない。体内の菌が抜けきるまでも含め十日間ほどは外出してはならないと一般的に云われている。 アールは出せるものを出してしまうと、口内を漱ぐために隣り合っている洗面所へ移動した。口の中を口内洗浄液で漱ぎ、顔を水で洗った。鏡越しに眼が合う。あの何の感情も籠っていない視線だった。存在を認識したという程度のものだ。 自分より大きい体の男を運ぶことなどできないが、ハルはいつでもアールの体を支えられるよう近くにいて寝台に戻るのを見守った。 「行けよ」 アールは追い払う仕草をした。 「帰らないって云っただろ。今夜彼女が来ないなら、明日の朝までいるよ」 消耗した体には声すら刺激になることがあるので、なるべく声を低めに抑え気味にした。 「何でもするから」 「お前に何ができる。無駄な気遣いはよせ」 ハルは軽く息を吐いて肩を竦めた。室内の過剰な暖房の所為でシャツを脱ぎたくなってきていた。 「何かしら役に立てる。何か欲しいものがあれば買いに行くし。多分、今日が一番つらい日だと思う。明日の朝になったらいつも通り出て行くから。うるさくしない。だから、いていい?」 執拗(しつこ)い、と云われるのを幾分承知でハルは訊ねた。アールは黙ったままだった。吐く際に体力を使いきったのだろう。先刻よりもぐったりしていた。眼を閉じて壁の方へ顔を背けている。 「こういう状態を見られたくないって云ってるんだ。いい加減察しろ」 「俺なんかに見られて気にするわけ?」 「お前のためにも云ってる。感染(うつ)したとしても責任とれない」 「いいよ。感染しても」 たった一言アールが自分を気遣った台詞に対して、そう答えてしまった。ハルにとってはそれだけでも返礼や償いには充分だった。それどころではなく、もし彼が楽になるのなら、今感じている苦痛ごと自分に移してもいいとハルは本気で思ってしまった。自分は莫迦だと思う。彼が与える側の人間だということをどうしようもなく思い知らされる。 もうアールは何もハルに云い返さなかった。 ハルは照明用のリモコンでぎりぎり視界が利く程度に調光した。 「暖房は切るな。寒いんだ」 「分かってるよ」 その後もハルが何となく室内を整えていると、アールは寝台の奥に体をずらし、一人分のスペースを空けていた。眼で来るように云われているのがハルには分かる。 あの時と同じだと思った。 自分を散々に甚振ったあの初めての夜。アールはあの時と同じ眼をしていた。 ハルは一日着た服のまま寝台に入り込むのはどうかと思い、服を脱ぎ始めた。 「そんな元気はない」 何か勘違いをされていると察したハルは少し笑った。 「汗をかいてるから。俺は暑いんだよ」 下着だけ身に付けた状態で寝台に潜り込む。二枚目の敷布なのだろうが、汗の匂いがした。枕カバーからも。寝台の中は雑多な匂いに満ちていた。 その中でアールと眼が合った。 汗ばんで垢じみて髪が乱れに乱れても、そのブルートパーズの眼だけはハルを揺さぶる光を放っていた。 もうずっと、出会った時からこの眼に惹かれていた。一目惚れだった。相手の眼に惹きつけられたのは自分の方だとハルは思う。 この男は何を考えているのだろう。 こんな時に傍にいられるのが自分しかいないなんて、今の彼は一体どういう気持ちなのだろう。どうして自分を寝台に引き入れたりしたのだろう。 ハルにはアールの気持ちが分からない。 きっとアールにも自分の気持ちが分からないだろう。 人の心に触れるとはどういうことだろう。 ここに愛があれば、分かっただろうか。 自分が愛を知っている人間だったなら、この男の感情も孤独も余さず理解して、孤独を癒して、それこそこの男を変えてやることができただろうか。 とても静かな時間だった。掛時計の微かな秒針の音は頻りにハルの耳を打ち、外からはオートバイや車の過ぎ去る音が聞こえてきた。 こんなに落ち着いた気持ちでアールの眼を見つめ続けたことはない。 いつもはしないが、何故か今日は許される気がしてその胸に顔を押しつけた。 今日は香水の香りなんかしなかった。皮脂や汗や、その他体臭と呼ばれる普段は決して人前に晒すことのないにおいに包まれた。その中でハルは自分も同じ匂いになろうとした。 もし幸せというものがあるならそれはきっとこういうところに潜んでいるのかも知れない。 けれど、今この場でどれほどそれを追い求めてみても、ただ一つ感じ取れたことは、自分にそれを与えてくれる相手はアールではないということだけだった。

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