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第56話

「どう?」 スーズは服のラックから眼を離し、試着室から出て来たハルを一瞥した。 「サイズが合っていないように思いますが。手が半分しか出てませんよ」 「ビッグシルエットだからこれでいいんだよ」 ハルは新しいブルゾンを購入したいと思っていた。暖かくて丈も長め。ゆったりしているのでセーターを中に着てもきつくないだろう。 土曜日の昼過ぎだった。今日はスーズと一緒に買い物に来ていた。忙しいと断られるかと思ったのだが、意外にも電話をかけるとスーズは二つ返事で了承してくれたのだ。 「そういう服がお好きなんですか?」 「こういうの、今の流行りだろ」 「サスティナブルファッションというやつですか?確かに、あなたが今着てらっしゃるそれなら、将来太っても新しい服を買うことなく長く着れますものね。私達消費者が環境負荷を軽減するのに最も実践しやすいのは一着を長く着ることですから。まあでも、そうだとしても袖はお直しに出した方がいいと思いますよ」 「・・・本気で云ってる?」 スーズはもう一度ハルを見た。 「いいんじゃないですか。自分の服があるのに、わざわざ彼氏の服を借りて着ているあざとい女性のようです」 「お前、誉め言葉っていうのを母親から習わなかったのか?もういい」 「冗談ですよ、怒らないで下さい。お似合いですよ」 「・・・じゃあ買おうっと。お前も何か着る?」 「そうですね」 スーズは白っぽいオックスフォードシャツを眺めていた。だが、それをショーケースの上に置いた途端、横にいた客がさっとそれを手に取り、会計へ持って行ってしまった。 「何だあれ。おい、今こいつが見てたとこなんだぞ」 ハルは試着室から喚いたが、礼儀知らずの客は見向きもしない。舌打ちして尚も抗議しようと試着室から出かけたところを、 「よしましょう。考えてみたらあのシャツ、今着てるのと似てますしね」 とスーズが宥めた。確かにその通りだったが、ハルの気は治まらない。 「そういう問題じゃない」 「いいんですって。危うく似たような服を買うところでした。もうけたと思って出ましょう」 こういう落ち着きがハルにはない。基本的にスーズは他人にそう容易く感情を乱されたりしない人間だった。ハルは仕事の時はそうでもないが、本当はかっとなりやすいところがある。歳上の相手ばかり好むのは、こういった自分の直情的な気質を見逃してくれるか、いちいち相手にしないからだった。だから歳下のスーズがこんな風にスマートに自分の気持ちを軌道修正してくれたことがハルは意外で、同時にほんの僅かだか魅力を感じてしまった。 ハルは試着したブルゾンを買った。会計で早速タグを切ってもらい、着たまま店を出ると待っていたスーズが少し笑みを零したように見えた。 「今着るんですね」 「うん、買って良かった。じゃあ何か食べに行こう」 ハルはファストフード店が集まる三階のフードコートに向かおうとするスーズを制して、少し高級なカフェレストランへ連れて行った。どうせ代金は負担するつもりだった。昼時を過ぎていたので席には余裕があったのか窓際の席に通された。 「水曜日どうだったんですか?」 スーズに訊かれてハルはどきりとした。 訊かれるだろうなとは思っていた。ハルは努めて明るく答えた。 「うん。あいつ、本当に体調を崩しててかなりひどかったんだ。誰も部屋にいなくて、誰かがついててやらなきゃまずいかなって、思ったから、その・・・いてやったんだけど」 「ああ、まあ、そうなるとは思いましたけど」 少し間が空いた。いつまで経ってもアールに別れ話を切り出さないどころか、病気といえど律義に世話を焼いて帰って来るなんて、心底手に負えないとスーズに思われているのではないかとハルは怖気づいた。 「もちろん、感染(うつ)るといけないから帰れって云われたけど、あの、でも吐いてたし、食欲もなくて、誰かが面倒を看なきゃいけない状態だった、から。それで俺も疲れて、うっかり寝ちゃってさ」 「別に責めてませんよ。看病してあげたのは優しいなと思います」 小言の一つでも云われるのではないかと思っていたところ、予想外の言葉をかけられた。 「そうか」 安心した。スーズの反応を気にしている自分がいる。別にそんな義理はないのに。 色々気にしてくれる彼の親切に応えなければならない。頭のどこかでそう思っているだけだ。 「あなたの機嫌が良さそうで何よりです」 「え、そう見える?」 「ええ、こうやって私を買い物に誘い出すあたりなんか。アールに頼られて嬉しかったんですか?」 「いや、そういうんじゃないよ」 ハルは水を飲み、頭の中で三日前のことを整理しようとした。 「何だろう、何か自分の中では諦めがついたというか、そんなところ」 「何かが腑に落ちたんですね」 「そういうことかな」 そこで先に飲み物が運ばれて来た。 「それで、別れられたんですか?」 「とは云えないな。何だか有耶無耶になっちゃった感じだから。もう一度あいつとはちゃんと話すつもりだよ」 あの日はあれから大変だった。アールは一晩の間に二回手洗いに駆け込まなければならなかったし、喉が渇くと云う彼のために白湯を用意したり、吐瀉物で汚れた服を着替えさせるために、普段は触ることを許されないクローゼットを手当たり次第探ったりしなければならなかった。 スポーツドリンクを温めたものがアールの口に合うらしく、朝方、胃腸が気持ち悪いからと彼は何度かそれを所望した。そういうわけでハルも隣にいてとても安眠できる状況ではなかったし、何より以前からハルの体はアールの傍にいると、彼が寝息を立てなければ眠れないという融通の利かない面があった。翌早朝、ハルはふらふらになりながらもタクシーに乗って自宅へ帰り、身支度をして出社した。その日一日をやり終えた時、ハルは自分に賞状をあげたい気分だった。 「ハルさん」 「うん?」 「もし良かったら、次にアールに別れを切り出す時は、私がついて行きましょうか?」 「え?」 「いえ、いざとなると気持ちが揺らぐんじゃないかなと思って。不安なら、私がフォローしますよ」 「そんなことしたらお前がアールに恨まれるぞ。何か吹き込んだって云って来るに決まってる」 「だとしても構いません。私は別にあの人、怖くないですから」 「俺だって怖いわけじゃない。けど」 嘘だった。まだ少しアールに嫌われるのが怖かった。何より、アールを一人にすることが心苦しかった。自分はあの男の孤独とまだ手を繋いでいる。 けれどこのスーズの申し出は嬉しかった。一緒に立ち向かってくれる気があるというだけで自分は充分救われる。 「ありがとう。でも大丈夫だ。自分で何とかできる」 「そうですか。そうですよね。すみません。ついお節介を」 食事を終え、少し本屋に立ち寄り、その後雑貨屋を冷やかして歩いた。 不思議と間がもたないということはなかった。多分、最初から自分達の関係は遠慮するような間柄ではなかったからだと思う。 夕方に差しかかり、呑みに行こうというハルの誘いをスーズは断った。 「だめです。電話で三時間だけと約束したでしょう。大学に行って少し調べものをしないといけないんです」 「えー、いいじゃん。そんなの」 「大人のくせに無責任なこと云わないで下さい。他にご友人とか、誘える方がいるでしょう?」 「いないよ。学生の時の友達はみんな結婚してるか、彼女持ちだし」 「本当に寂しい人なんですね、あなた」 最早、憐憫とも云える目つきでスーズはハルを見てきた。 「うるさい。酒に付き合え」 「今日はお断りします」 人の気も知らないで、とハルは思った。誘う方だってそれなりに覚悟が要るものなのだ。また自分の方から声をかけなければスーズは連絡をくれない気がする。語学教室のレッスンで会うこともない。もしハルの方が何の連絡もしなければ、この国を離れるまで音沙汰がないのではないか。ひと月電話をしなければ忘れ去られていそうだ。やっぱり大学の同級生達といる方が楽しいのだろうか。 スーズは荷物をがさごそとやって折り畳んだ派手なチラシをハルに手渡してきた。 「どうぞ」 「何これ」 「うちの大学の学校祭の案内です。十二月の第一週目の土日が開催日です」 「学校祭?」 「そこで私、留学生代表でスピーチをするんです。留学に来た感想をまとめて、それを将来のビジョンに絡めて、五分ほど喋るんです。毎年受け入れる留学生の中から一人を選んで、原稿をスピーチさせてるそうなんですが」 「へえ、お前がスピーチ?すごいじゃん」 「押しつけられたんですよ。留学生仲間はスピーチするより、学校祭を楽しみたいみたいで」 「ほら見ろ。勉強しに来たっつったってみんなそんなもんなんだって」 「しかもはっきり云って、この国の言葉でスピーチしても私にとっては何の勉強にならないので、それなら英語の方が張り合いがある、なんて喋ってたらそれを教授に聞かれてて。じゃあ英語でやってみろって云われたんです」 「うわ、うける」 「私、語学担当の教授に嫌われてしまってて。自分で云うのも何ですが、この国の言葉ができることが気に入らないみたいです。喋れるなら留学なんかして来るなよって思われてるみたいで」 「っていうか、お前に可愛げがないからじゃないの?で、何?俺に聞きに来いって?」 「無理にとは云いませんが」  ハルは黙っていた。もったいぶって、口許に当てた手の下で笑うのを堪えていた。  嬉しかった。誰かにイベントに誘われたのは久しぶりだった。電話でスーズを誘った時もそうだが、誰かと何かをしたいと思ったのもものすごく久しぶりのことだったのだ。 「・・・大人のあなたを誘う場所じゃないですよね」  揶揄われているのに気づかず、スーズは遠慮がちにチラシを回収しようとした。 「行く」 「え」 「行く。急な仕事が入らなきゃ行ける。案内してよ、学校」  別れる前にハルはスーズとメッセージアプリのIDを交換した。 「今更ですけど、今でも私のことを嫌っていますか?」  携帯電話をしまった時、スーズの方からそう切り出されて、ハルは笑ってしまった。 「ほんとに今更だな。お前こそどうなんだよ?色々悪口も云われた気がするけど?」 「あの時は、売り言葉に買い言葉、ってやつですか?でも、今は違います」 「俺も、今は違う」 「良かったです」 スーズは親しみを込めた眼差しでハルを見つめてきた。こういう時ハルは自分が人の温かさに飢えていることを自覚する。全く自分は油断も隙もない。僅かでも好意が生じれば、それに縋りつきたくなる。自分の中の蔦が取りつく相手を探しているのだ。 「訊きたかったんだけどさ、何でアールのこととか親のこととか気にしてくれるの?」 「理由はお話したと思いますけど」 「心理学やってるからって?それだけってことはないだろ」 「あなたが私に似ていたから」 「え」 「今度はちゃんと夜に時間を作ります。日が近くなったらまた連絡を入れますので」 その日、家に帰ると結婚式の招待状が届いていた。高校の時の同級生だった。 内容を確認しているところに電話がかかってきた。画面に表示された相手の名前を見て、ぱっと気持ちが明るくなった。すぐに電話に出た。 「ルイ?」 「ハル、久しぶりだな。元気にしてるか?」 「うん、出かけてて今帰って来たところなんだ。お前も元気か?」 懐かしい。この声を最後に聞いたのは約一年前、やはり同級生の結婚式でだっただろうか。 ルイは高校時代の同級生で、入学した時からの付き合いだ。三年間ずっと仲が良かった。大学は別だったので、そこから徐々に連絡は途切れがちになっていったが、こうしたイベントがある時は必ず彼の方から電話やメッセージをくれる。 「ムーの結婚式のことでかけたんだよ。もちろん行くよな?」 「行くよ。お前もだろ?久しぶりにみんなに会いたい」 云った後で、ハルは自分の声が昂奮で大きくなっているのに気づき恥ずかしくなった。だがルイは笑っただけだった。 「俺も、みんなに会いたい」 ルイは大学卒業後、広告の仕事をしているはずだった。 学生時代、彼には全てを教わった。制服の着崩し方、流行り言葉、アルバイト、喧嘩の方法。高校から公立校に通い始めたハルは周囲に馴染めず分からないことだらけだった。ルイはそんなハルを異端者扱いせず、仲間に引き入れてくれた。 思い出話に花を咲かせようとした矢先、電話の向こうから熱を持った泣き声が聞こえてきた。 「あ」 「ああ、ごめん。子供が起きたみたいだ。久しぶりに話せて良かったよ。お前が来るかどうかだけが気がかりだったから。お前、時間ができた時は電話かけて来いよ。メッセージでもいいから。当日、会場で会おう」 体調を崩すなよ、と念を押してルイは電話を切った。 電話を切った後で、ハルはデスクの上に置いた招待状を開いた。 出席に丸をつけ、携帯電話で調べた定型文通りの祝いのメッセージを記入し、返信用の封筒の表書きを直す。そして封をした。

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