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第57話

ハルが直属の上司から呼び出されたのは翌週の月曜日のことだった。 「退職届はいつ出すつもりなんだ?」 部屋に入った途端いきなりそう云われた。ほとんど使うことのない一等狭い会議室にハル達はいた。電気を点けなくとも室内は明るかったが、空気は冷えきっていた。 「・・・何の話でしょう?」 「時間がないから手短に話そう」 午前十一時前で上司はこの後定例報告会を控えているはずだった。上司は室内にあるキャスター付きの椅子に腰かけもしなかった。 「君は能力があるのに決してそれをひけらかさなかった。大口の法人客を引き受けるようになってからも個人の客を後輩達に任せきりにしないで、同じぐらい熱意をもって頑張ってくれた。何か仕事を頼んでも、予定外のことが起きても、嫌な顔一つせず取り組んでくれた。こんなこと、云う気はなかったんだが、先日、来年度の人事を決める会議で来年度の主任に君を推そうと思っていたら、統括マネージャーから君が競合他社に転職する準備をしていると聞かされたよ」 「転職?」 ハルには上司が何を云っているのか全く分からなかった。 「そういう話を別のところから聞いたそうだよ」 突然のことで混乱した。転職活動をしていたのは確かだが、ハルはここ最近自宅で情報を確認するだけで目立った行動は起こしていない。面接も行っていなければ、エージェントへのメール返信もしたりしなかったりといった状態だった。もちろん、頭の片隅にはあるのだがそれ以外のことを考えているうちに、使える時間が過ぎ去っているという日々が続いていた。 競合他社とは何のことだろう。第一、どうして転職活動のことを上司が知っているのか。更にその上の統括マネージャーが知っている?どういうことだろう。 「君がよりいい人生を歩めるなら、それはそれでいい」 上司の声色には既に諦めたような気配があった。そして白い封筒をテーブルの上に置いた。表書きに退職届とはっきり印刷されていた。 「先週の火曜、君のパソコンの下に挟んであったのを見つけたよ。後輩も見ることがあるのに、少し不用心すぎるんじゃないか。悪いけど、中は検めさせてもらったよ。デスクは私物じゃない。誰かに見られたら困るものを置いたらいけないことは分かってるだろ?見られてもいいと思ったから抽斗にもしまわずに、あんなところに置いてたのか?」 ハルは封筒の中身を取り出して開いた。 パソコンの文字で一身上の都合により退職したい、という旨の典型的な自主退職の文言が書かれている。だがその下にはきちんとハルの印鑑が押されていた。 「もしかしたら君は会社の規定通り、ひと月前に話をしてくるつもりだったのかも知れないな。でも、だとしたら俺は情けないよ。どうして一言相談してこなかった?」 「自分はこんなもの書いていません」 上司はハルの顔を見てから溜息を吐いた。 「たった今気が変わったって云うなら、もう少しまともな云い訳をしろ」 「そういうことじゃなく」 「最近ミスが続いてたのは他に眼が向いてたからじゃないのか?云っておくけど、主任候補の推薦ならもう別の人間に決めたよ」 ここまで云われてようやくハルは自分に降りかかった破調が、この会社で生きていく上で取り返しのつかないものであることを覚った。 「自分で書いたんじゃないって云うなら、誰がこんなものを書くんだ?そこまで君を恨んでいて、尚且つこんなことをする暇な人間がこの社内にいるって云うのか?誰かに恨まれる覚えがあるって云うなら云ってみろ」 犯人に心当たりのないハルは口を噤んだ。ユニはこういう陰気な嫌がらせはしない。ブランに恨まれているとは思えない。第一彼は、封筒に文字を印刷する方法を知らない。一体誰なのか。無意識に自分はどこかで恨みを買っていたのか。でも、だからと云ってこんなやり方をするなんて。 眼の前にいるのは少々昔気質ではあるが聞く耳を持たぬ上司ではない。きちんと話せばきっと分かってくれるはずだ。 「とにかく、これは自分が用意したものじゃありません。こんなの、パソコンでいくらでも打てますし、印鑑だって私はデスクの抽斗に一つ置いて行っているのがあるんです。誰かが取り出して押すことは可能です。人事のこととは関係なく、私にはまだ働く意思が」 「まだ?まだってどういうことだ?」 云った後で口を滑らせたことに気づいた。同時に自分と同じくらい、この人も神経を研ぎ澄ませているのだと知った。普段は言葉一つに気を取られるような男ではない。 ハルは前にいた営業所の上司より、この上司の方が好きだった。普段は優しいとは云い難いが、ユニがやって来る前、休職した同期のことを誰よりも心配していたのはこの人なのだ。だからハルもその手助けをしようと思った。 「本音を聞かせてくれ。これは誰かの悪質な悪戯で、君は転職なんか考えていないし、今後もうちを辞める気は一切ないってことだね?」 相手が本気で問い質していると思うと、ハルは嘘を吐けなかった。 「・・・いいえ、転職活動をしていたことは本当です」 「どうして?何か不満があったのか?」 そんなことをここで云って何になるんだろう。 ハルはこの状況から意識が離れるのを感じた。今ここで素直に自分の待遇に関する不満を云えば生意気で愛社精神のない奴だと思われるだろうし、これ以上何も云わなかったとしてもその頑なな態度は事態を肯定していると取られるに違いない。 上司はしばらくハルの答えを待っていたが、やがて疲れきった表情で退職届を回収した。 「いずれ辞めようとしている人間に責任のある仕事は任せられない」 会議室を出て窓にもたれ火を点けると、ユニがこちらに向かって来るのが見えた。ハルと眼が合うと、一見友好的な笑みを浮かべて喫煙室の扉を開けた。 ユニはハルが火を点けたばかりの煙草を口許から奪った。彼は煙草を吸うくせに、自分では買わない。喫煙室の中には誰もいないが、この空間の半面は透明な壁だ。外は廊下になっていて人がしょっちゅう行き交っている。誰も見ていなかった事を眼で確認してから、ハルは新しい煙草を取り出した。まだユニの顔には笑顔の余韻があった。 「いいざまですね」 ユニが吐いた煙がハルの顔に届いた。 「他人を簡単に信用するからそうなるんです。何でも矢鱈に話すものじゃない」 「何云ってるんだ」  眼の前の男の云っている意味が分からず、端から態度が刺々しいものになる。 「人を見る目がないって云ってるんだよ」  ハルの眼を正面から見つめながら即座に彼は云い返した。社内で丁寧語を欠かすのは彼らしくなかった。彼なりにけじめをつけていたはずだった。 喫煙室はちょっとした温室のようでもあった。透明な壁の外側を、同じ課の数人が通り過ぎて行くのが見えた。その中にサワがいた。彼は喫煙室の中にいたハルと眼を合わせたが、何の表情もなく立ち去ってしまった。サワ達が通り過ぎたことにユニも気づいており、彼等を見送った後で冷笑した。 「この前、サワさんと話をしたんですよね。普段はほとんど関わることもないんですけど、珍しく向こうから声をかけてきたんです」 ハルは火を点けた煙草を口から離し、改めてユニを見た。 「最初はあれこれ無駄話を仕掛けてきましたけど、どれにも乗らずにいると、あなたのことを訊かれました。俺とブランにとってはどういう先輩なのかって。それが本題だったんです。チーフに気に入られてるあなたのことが気になって仕方がないみたいでした」 「俺は別に気に入られてなんかいないけど」 「自覚なしですか?まあ他の社員達の手前、チーフも態度に出さないようにはしてましたけど」 ユニは向き直ってカウンターに肘をついてもたれていた。 相手の発言が腑に落ちないハルは、この後輩が自分を揶揄っているのかと思った。取り立てて上司に気に入られていると感じたことはない。仕事のできる社員は他にも沢山いたし、自分はそこまで目立つタイプでもない。入社当初は右も左も分からず周囲に迷惑をかけてばかりだった。だから人より時間をかけて仕事に取り組んだ。任された仕事は最後まできちんとやろうと思った。調子の悪い時やミスをした時の気持ちが分かるから、助け合いは必要だと思って手が空けば人を手伝いもした。だがそれだけのことだ。 云っている意味が分からないといった表情のハルを見て、ユニは面白がるように笑った。 「サワさんはあなたのことを知りたいというより、俺達後輩があなたをどう思ってるかということを知りたいみたいでした。正直に話しましたよ。良い先輩だって。残業も休日出勤も嫌がらないし、一生懸命だし、丁寧だし、客受けも良いしって」 「嘘吐け」 「いいえ、これは本当です。それから、英語が喋れるから凄い、とも云いました」 「そんなこと話したのか?云っただろ、云うほどの実力じゃない。そんな風に吹聴されるのは迷惑だ」 「それ、謙虚な姿勢のつもりですか?」 ユニの冷めた視線にハルの胸が冷える。ユニはそのまま観察するようにハルの顔から足許まで眺め、もう一度眼を見た。 「あなた、あの人に嫉妬されてたんですよ」 「嫉妬って、サワに?」 ユニは煙草を挟んだ方の手で軽く廊下を示した。 「何でよりによって同期なんかにわざわざ自分の弱みを握らせるんですかね。今回のことはあなたの過失です。云わなくていいことをべらべら喋って。友達にでもなったつもりですか?警戒心がなさすぎる」 「どういう意味だよ?」 「競合他社に転職するって噂だけじゃない。あなた、外国人美女に弄ばれて神経をすり減らしてるからミスが増えてる、なんて他の社員達から陰で嘲笑われてるんですよ」 「何だそれ」 「知らないか。まあ本人の耳に入るように噂する莫迦はいませんよね。その下らない噂の出所知りたいですか?サワさんですよ」 ハルは全く訳が分からなかった。ユニが何かを知っているのは明らかだったが、上司との話し合いで受けたショックの所為でまだ思考が素早く働かなかった。 「一体あの人に何を打ち明けたんです?」 「何って」 「何も気づいてないんですか?あなたに今日降りかかった災難をよく考えてみて下さいよ」 一人静かに考えを巡らせようと思っていたのに邪魔をしてきたのはお前だ、とハルは思う。 「チーフはあなたを来年度の主任に推すつもりで準備をしてた。今、主任を務めてる先輩は今年度一杯で異動ですよね。チーフは先輩に指示してあなたに少しずつ顧客を引き継がせようとしてたんです。引き継ぎ客のリスト、もらってましたよね?あなたが現主任の顧客をちゃんと引き継いで仕事をこなしてるっていう既成事実を人事査定前に作ってしまえば推しやすくなる。まああなた、速攻でそのリスト失くしてましたけど」 「・・・いつの間にか保存したはずのリストが消えてて」 「その他にC社へ持参した書類の抜け落ちと、社用携帯の紛失がありましたよね。ブランから聞いてます」 ブランに話したことは全部ユニに筒抜けということか。お前等もう付き合っちまえよとハルは悪態をつきたくなった。 「これから話すこと、話半分に聞いてもらえますか?」 ユニは云った。 「実はあなたがC社へ訪問する日の朝、俺、用が合ってちょっと早く出社したんですよね。その時、サワさんに会ってるんです。俺が入室した時あの人、あなたのデスクの前に立ってました。すぐにあの人も俺に気づいてごく普通に挨拶をして。で、すれ違った直後に、何かの紙を一枚シュレッダーにかけてたんです。よく見えなかったけれど、青い円グラフが記載されているものでした。後で確認したんですけど、あの日抜けてたのって三枚目の資料じゃなかったですか?」 ユニの云う通りだった。五枚ある資料のうち、グラフを示した資料は三枚目だけだ。まとめて印刷をかけてすぐに手に取って確認し、クリップをつけて封筒に入れたはずなのに、何故かそれだけがなくなっていた。 「でもその日はまさかそれがあなたの資料だなんて思いもしないし、特に気にも留めてなかったんです。その後で携帯のことがありましたよね。二日後にブランから聞いて思い出したのは、あの日、昼休憩中にサワさんがブランに話しかけに来てたことです。後で訊いたら話の内容はちょっとした事務連絡と雑談だったらしいんですが。俺も見てたんですけどあの人、ブランと話しながら隣にあるあなたの席にわざわざ坐って、矢鱈とデスクの上の物触ってたんですよね。一見手持無沙汰を紛らわしてるようにも見えたんですけど。で、その後休憩から帰って来たあなたは慌てて何か探してた。携帯、なくなってたんですよね」 「そうだよ。けどお前らしくない随分ぼんやりした話し方だな。今のだと、まるでサワが犯人みたいに聞こえるぞ」 「ええ、俺はあの人の仕業だろうと思ってます」 「滅多なこと云うなよ。今の話じゃ、証拠にも何にもならない」 「だから話半分に聞けって云ったでしょう。けど実際事が起きてから、今の話聞いてみてどうです?転職も色恋沙汰も、サワさん以外の誰が知ってるんです?」 正にそれだった。信じたいけど信じられないというのはこういうことだ。今回のことは、サワにしか話していないのだから。 「俺の勝手な想像ですけど、恐らくチーフがあなたを来年度の主任に推していることをサワさんは何処かで知ってた。それであなたにここしばらく嫌がらせをしてた。けどあなたもここ最近色恋沙汰だか体調不良だか知りませんが、ぼんやりしてた。起きてることが全部自分のミスだって端から思い込むぐらいに。当然、今となってはどれがあなたのミスでどれが嫌がらせだったかなんて分かりません。ただ、あの時はちょっと追い詰められて参ってる感じが伝わってきましたから。一体、あの人にどんな優しい言葉をかけてもらったんです?」 「・・・サワはあの時、不調だった俺のことを心配して話しかけてくれたんだ」 「俺に云わせれば、ただでいい顔をしてくる奴ほど信用ならない相手はいません」 「あいつが犯人だって云うのかよ?」 「他に心当たりがあるなら教えて下さい」 「確かにあいつには色々喋ったよ。でも、誰にも云わないで欲しいって約束もした」 「中学生かよ。それ、相手にとっては何の見返りもない口止めですよね。本気でそんなのに効果があると思ってるなんておめでたいとしか云いようがない」 本心ではもう分かっていた。失敗した。自分が間違えた。男は外に出れば七人の敵がいる。 理由は分からないが、ユニもこの事態を煩わしく感じているようだった。この事態は彼には何の関わりもないはずだが、とハルは思う。 「俺は常々、監視カメラを室内に設置すべきだって上に箴言してるんです」 「・・・サワに憎まれてるなんて、全然気づかなかった」 「あの人は別にあなたを憎んでなんかないですよ。みんな自分が大事なだけです。あの人は自分の立場とか将来のことをちゃんと考えていて、あなたより周りの動向を気にして生きてた。ぼんやりしてる間に、あなたはあの人に蹴落とされたんです。あなたがいなくなれば自分が上に立てる。ぼやぼやしてるうちにライバルの気が変わったら厄介ですからね。さりげなく統括マネージャーに声をかけて仕事の相談から同期の相談、そしてあなたが欠勤した日にすかさず退職届をこれ見よがしに置いておけば」 ユニはそこで唐突に言葉を切った。持っていた煙草の灰を落とすのを忘れていたのだ。手に灰がかかったようだ。 「周りは他人のことになんか然程興味ないんです。変な噂が立った上に、そういうのを眼にしたら誰もがあなたは退職するんだって思い込む。自業自得ですよ。普段は職場でドライに振る舞ってるくせに、どうして今回あの人を信用したんですか?」 信用したわけじゃない。甘えようとした。碌に知らない相手に寄りかかろうとした。ユニの云う通り自業自得だった。 「俺は噂を聞いて眉唾物だってすぐ思いましたけどね。競合他社に転職なんて、そんな気概あなたにあるわけないじゃないですか」 相変わらずユニは苛々している。 「今から釈明してどれだけの人間が分かってくれるか」 「いい。一人、分かってくれてるから」 先に喫煙室を出てから思った。これで良かったんじゃないか。ここまで差し迫ってみて初めて自分は、本心から転職を望んでいることを悟った。そもそも何で自分は英語の教材なんか売っているんだろう。愛らしいキャラクターのDVDも、カラフルなパズルも自分には鉛のような記憶しか思い起こさせない。これによって自分は子供時代を奪われたも同然なのだ。どの親もこんなものに大金なんか払って。子供が教材を放り出す、という半ば八つ当たりのようなクレームを受ける時、ハルは心のどこかでその子供を賞賛していた。心配なのは教材を純粋に楽しんでいると回答する親の子供だ。そんな感想、どれもこれも嘘じゃないのか。小さくたって子供は子供なりに親の期待を察知するものだ。子供という汚れない生き物の悲しい性だ。かつての自分を忘れたわけでもないのに。この現場に何で六年もいたんだろう。 事態がこんな風にならなければきっと自分は本気で動かなかった。自分は優柔不断で怖がりだから。

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