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第58話

「そういう恰好もされるんですね」 携帯電話から顔を上げるとスーズがいた。 学校祭の日、待ち合わせたのは、彼が通う大学がある駅の改札だった。 実はハルは先にスーズを見つけていたが、あえて彼が気づいて近づいて来るまで待っていた。 「朝、お会いするのは新鮮ですね」 「そういえばそうだな」 スピーチが午前十一時から始まるというので、ハル達が会う約束をしたのは九時半だった。 今朝のスーズの表情には明るく迎え入れようとする雰囲気があった。これほど明確な親しみをもって彼の方から近づいて来てくれたことなど今までなかったので、ハルは少々まごつきながらも微笑みと含羞をもって応じた。 学生に交じるということでハルはやや丈の長いダンボールニットのパーカーとデニムというラフな格好で来ていたのに対し、スーズは普段とほぼ同じような服装で現れた。だが一応舞台に立つことを意識してか、普段よりもっと地味なセンターラインの入ったグレーのスラックスを穿いて来ていた。今日は自分の方が学生で、スーズの方が社会人みたいだ、とハルは思った。 「待ち合わせの時間、もっとゆっくりでも良かったんですよ」 「だめだ。お前は現場でちゃんと準備しないと。原稿の読み上げ練習はしたか?焦って人前に立つと雰囲気に吞まれるぞ。声が震えたりとかな。十分前には会場に入って空気感に慣れて緊張を鎮めないと」 「私はそこまで緊張していませんが」 「緊張しろよ。何なの?旅の恥はかき捨てぐらいに思ってる?」 「スピーチの経験は何回かあるんです。英語は一度だけですけど」 何の衒いもなく聞こえるのはやはりスーズに対する自分の気持ちがかなり軟化したからだろうか、などと考えながらハルはスーズの歩幅に合わせて歩いた。 「へえ、その時は何について喋ったの?」 「高校生の時ですけど難民の子供達を相手にボランティアをしたことがあったんです。それで体験レポートを書いたら、全校生徒の前で読むように云われて」 「え、すごい」 「たまたまですよ。英語の必要性を強く感じたのはその時ですね。私達ボランティア側と子供達が共通して、どうにかこうにか喋れるのが英語だけだったんです。お互いの国の公用語は全く喋れませんからね。学校で習った拙い英語を駆使して何とかコミュニケーションを図るしかなかった。子供達の事情が事情ですから胸の痛い話を聞くことも多かったんですけど、あの活動のおかげで子供が好きになりました」 職場のことでここ数日地を這うような気分だったが、スーズの顔を見て声を聞くうちに、久しぶりに明るさがハルの胸の中に宿った。安心できる場所に戻って来た気がした。 「俺も子供が好きだよ。仕事で子供用の英語教材を販売してるけど、子供と接する機会があると嬉しい。心が和む」 「へえ、あなたが?ちょっと意外です」 「何だよ、どういう意味だよ」 相手からの揶揄を軽く往なしていると、スーズの携帯に着信が入った。メッセージを確認すると、留学生仲間からだと云った。 「友人がスピーチの前に是非、店に寄ってくれと。留学生だけで担当してる屋台があるんですよ。私はそっちの当番は免除されてるんですけど、ちょっと覗きに行こうかなとは思ってて。 お付き合い頂いていいですか?スピーチまでまだ時間もありますし、珈琲ぐらいはただで出せますよ」 「いいよ、俺は適当にその辺うろうろしてる」 「そんなこと云わずに私の同級生達とも是非顔を合わせて行って下さい。あなたは英語ができるんですから。仲間に紹介します」 「本当にいいって」 「どうしてです?」 「俺の英語は発音が全然なってないってアールから云われてる。聞き取れないような英語を喋ってお前の仲間に気を遣わせるのは悪い」 アールの名前が出て来ると、スーズは少し厳しい表情になった。 「だからと云って喋るのをやめたら負けですよ。アールは意地悪く云ってるだけです。今だから云いますけど、あなたの英語は丁寧で表現の幅が広い。頭の抽斗にある英単語の数が私より明らかに多いです。気後れせずに喋って下さい。英語圏外の留学生だって多いですし、私も含め彼等の英語だって完璧じゃないんです」 「お前と同じ国から来てる留学生もいるの?」 「ええ、私以外に三人います」 そう云えば、スーズにはスーズの国の言葉があるのだ。自分と同じ言葉をすらすらと喋るのでつい忘れてしまうが、ちゃんと自分の国と自分の言語を持っている。その上で英語を勉強しているという点はハルと一緒だった。自分の国の言葉を喋る時、この男はどんな風に発音するのだろう。ここにきて、スーズの内面や背景に興味を抱いている自分にハルは気づいた。 そこから更に数分歩くと交叉点の向こうにスーズの大学の校舎が見えてきた。 「なあ、お前が云ってたこと、ずっと気になってたんだけど」 「はい?」 「ほら、俺とお前が似てるって話。そんなに似てやしないと思うけど。だってまず、お前の方が背高いじゃん。髪や眼の色も違う」 「姿形じゃないですよ。これまで経験してきたことが、です」  相手の話に気をとられたまま横断歩道を渡ろうとしたハルをスーズは腕で制した。信号が赤に変わる寸前だったからだ。彼の腕が胸のあたりに触れたことと、鼻先に届いたシトラスの香りにハルはどきっとした。 「・・・悪い」 「いいえ」 スーズは口許に優しげな笑みを称えていた。 「前から思ってたんですけど、ハルさんていつも薄荷みたいな匂いがしますよね」 「え?ああ」 スーズがそう口にしたのはハルの香水の香りのことだ。ハルは冬になってもベースがペパーミントの香りの香水を使い続けている。野暮だと思われても構わない。清涼感のある匂いが直情的な自分に落ち着きを与えてくれる気がする。 「高校の時からずっと同じ香水なんだ。何回か変えたりもしたけど、自分にしっくりくる香りってそうなくて」 「耳の後ろにつけてるでしょう?」 「そうだけど」 「やっぱり。シャンプーか何かの匂いなのかなとも思ったんですけど」 そう云うとスーズは首のあたりに鼻先を近づけてきた。 ハルは心臓が止まるかと思った。 「ちょっと、近い近い。何だ急に、大分恥ずかしいんだけど」 「何慌ててるんです?駅ビルの前で初めて話しかけて来た時、あなた私の腕に絡みついてきましたよね」 「かなり前だろ。あの時は平気だったんだよ」 「で、今は恥ずかしいんですか?」 「そう」 「どうして?」 信号が青に変わった。歩き出す際にスーズの方を見ると、まだ彼は笑みを浮かべていた。 「・・・他人なら平気だけど、友達だと逆に無理」 「私、あなたの友達になったんですか?嬉しいです。いつから?」 「いつから、って」 「友達にして頂けたということは、私を好きになったということですよね?」 「はあ?」 「だってそうでしょう?好きでもない相手を友人にしようなんて思わない」 「ああ、友達な。そうだよ、友達としての好意だからな」 「ええ、もちろんです。他に何かあります?」 答えに詰まってハルは黙り込んだまま歩き続けた。スーズに顔を覗き込まれる。 「すみません。ちょっと今日のあなたは服装の所為かいつもと感じが違うので、気安く接しすぎているかも知れませんね」 「気安い。かなり気安い」 スーズが単純に友達のいない自分を憐れんで今回のイベントに誘ってくれたことぐらい、分かりすぎるほど分かっている。 ハルは自分の中に生じた気持ちを警戒するようにした。 スーズの言動に容易く動揺した自分がいる。あまり手放しでこのイベントを楽しんだり、彼との仲を深めようとしたりするのは良くない。彼とは下心を挟まない友達でいた方がいい。 大学で同級生と一緒にいるスーズを見たら、自分達の間にある境界線をはっきりと感じ取れるはずだ。

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