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第60話

「もしアールとのことがなくて、違う形で出会っていたら私達、もう少し早く友達になれたと思います?」 ハルはそんなことを訊かれる心積もりはできていなかった。 「たとえば私とあなたが同い年で学生の時に出会っていたら、もっといい友達になれたでしょうか?」 「・・・そんなこと、考えたことないよ」 「まあ、あんな接点でもなければ、お互い無関心でしたかね。あなたみたいな人に私は会ったことがないですし、クラスにいても話しかけないと思います」 「それはこっちの台詞だっつの。どう考えても俺達、全然性格違うと思うけど」 「そうですね。でも案外、正反対の方が関係がうまくいくってこともありますし」 「それな。逆にすごく仲良くなったかも。大親友どころか付き合ってたりして」 ハルは笑って云ったがそれは冗談にはならなかった。アールのことで少し沈み込んでしまった会話の空気を軽くしようと思っただけなのに、スーズは笑ってくれなかった。 ひたむきな、あまりにもひたむきな、たった今この瞬間心奪われたというような視線。これほど澄んだ瞳をハルは見たことがない。自分の言葉が予期せずスーズの心の奥底にあった何かを(すなど)ってしまったことにハルは気づいた。そして同時に、自分が無駄に人生経験を重ねてしまったことにも。 スーズは自分を見ていない。この男は今正に自分の輪郭の上で揺らめいている誰かの面影を眼で追っている。彼の意識はここにはない。ユニがよくこういう眼をする。時々、アールも。 ハルは自分の発言の気まずさに耐えかねて俯き、わざと嘆息した。 「・・・冗談に決まってるだろ。前にも云ったかも知れないけど、俺は歳上の相手がいいんだ」 そして先程の男子学生が早く戻って来ないものかと周囲を見廻したが、ちょうど屋台に人が並んでしまい、彼もその他の学生も調理や会計に追われていた。 「分かってます。すみません、変なこと訊いて」 「いや、別に」 ハルは眼の前にいる友達が、他の友達の話をするのが好きではなかった。これは昔からの癖で、決していいものではないと自分では分かっている。何も相手がスーズだからというわけではなく、昔から友達ができにくい性格だったので奇跡的に気の合う友達ができると、必ず相手を独り占めしたくなるのだ。相手に友達が沢山いると知ると、内心傷つくような子供だった。 「そんなに似てるのか?」 「え?」 「俺が、その親友って奴にさ」 躊躇いがちにスーズは視線を逸らした。 「ごめんなさい。普段のあなたはそんなに彼には似ていないんです。ただ、今みたいに笑った時だけは少しだけ、彼と重なる」 ここでやっと彼は口許に笑みを浮かべたが、ハルの胸の靄は晴れなかった。 「何かを隠すように笑うところが、似てる」 この男がそう云うのなら自分はそういう顔をしているのだろうとハルは思う。思いきり笑うのは確かに苦手だ。ここ何年も声を上げて笑ってはいない。 「あなたが私の前で笑ってくれるようになって気づいたんです。最初の頃は笑顔なんて見れませんでしたから」 スーズが眼を合わせてくれて、ハルはやっと彼が戻ってきてくれたと思った。 この男はものすごく経験豊富にも、一心に一人を愛し続ける純粋な男にも見える。彼の経験値は読めなかった。一体、故郷の親友の前ではどんな顔を見せるのだろう。 「もう少し時間があれば、ハルさんとはもっと仲良くなれたかも知れません」 「え?」 スーズは息を吸うための間を作り、 「そろそろ私は帰ることを考えなくては」 と、落ち着いた様子で云った。 動揺を悟らせないようハルは素早く、そうか、と一言返事をした。刹那、周囲の騒めきが遠のいた気がした。 「そう云えばそうだったな」 「この学校祭が終わったら、年末まではレポート提出の嵐です。その後は約二週間の冬休みに入りますが、一月に講義が再開したら今度はすぐにペーパーテストがあるんです。そして二月の第二週目には春休みが始まります。休みに入ったら私達の留学プログラムは終了です」 ハルは珈琲を一口飲み、その後暖を取るように紙カップを両手で包んだ。 「語学教室は?」 「ポイントは今月一杯までです。以前お話した通り、三か月の短期集中コースをとっていたので」 ずっと頭の片隅にはあったことだが、こうして明確に告げられたことで別れが見えた。 だからといって、急激にこの男に対して恋しさが込み上げてきたわけではない。そうではないけれど、眼に見えない何かが目前に差し迫ってきた時のようにハルは少し息が詰まった。 そして何故か理不尽だと思った。あんなに自分の内面に深く入り込んできて、突き刺すような若い純粋さで搔き乱しておいて。蛍の光のような仄かな優しさを灯しておいて。今日こんな風に揺さぶっておいて。なのにもういなくなる?だったらこの出会いは何だったんだろう。 敏感なスーズに悟られないよう、ハルは大人としての振る舞いをここで発揮した。少し残念そうな、けれど納得したという笑顔を浮かべた。色々あったけれど、最後は旅先のよき友達としてこの学生に憶えていてもらおうと思った。 「じゃあこれから忙しくなるんだな。寂しくなるよ」 「ええ、なので今日だけは本当に丸一日休むことにしたんです。スピーチを終えたら、あなたと呑みに行く約束も果たさないといけないですしね」 「憶えててくれたんだ」 「はい」 そう云ってスーズはスピーチ原稿を取り出した。 「ちゃんと準備をしないといけませんよね。あなたの云う通り油断は禁物だ」 原稿のチェックをしているスーズを眺めていると、ハルの携帯電話が鳴った。新しく支給された社用携帯だ。休日なのだから自宅に置いておけば良いのだが、いつも何となく鞄に入れて持ち歩いてしまう癖があった。休日に鳴ることなど滅多にないとはいえ、万が一の時に頼りになる男だと思われたかった。でも考えてみれば、今となってはそんなことを考える必要もないのだった。 着信は母からだった。電話機は新しくなっても電話番号は変わっていないので、相変わらずかかってくる。うんざりするが、職場の代表電話にかけられるよりは数倍ましだ。 ハルはスーズの邪魔をしないよう、電話に出て来ると一言告げて席を立った。 「おはよう。ねえ、ちょっと突然だけどユウロさんとこのお嬢さん、あんた知ってる?」 母は相変わらず、自分の云いたいことを何の前振りもなく持ち出してきた。 「何?誰だって?」 「名前はちょっと忘れちゃったんだけど、ママも一、二回ぐらいその子に会ったことあるのよね。髪が長くて愛嬌がある感じの子なの。その子が高校生ぐらいの時のことなんだけど」 毎度のことだが、何処の誰の話だか分からずハルは当惑した。 「その人が何?」 「その娘さんがね、あんたみたいなのでもいいって云ってくれてるのよ。今はちょうど付き合ってる人もいないし、大丈夫ですよって」 「・・・は?いきなり何の話?」  嫌な予感がした。 「彼女も彼女で働いてるし、まあ実家も金持ちだからね。だからその子も母親のユウロさんも、あんたみたいな稼ぎが少ない男でも気にしないみたい。ものすごい美人てわけじゃないけど、何でも普通が一番だし。だから一回会ってみない?」 「・・・何、会うって」 「いきなり結婚とかそんなんじゃないけど、あんたも女っ気ないんだし、悪い話じゃないでしょ?気が合えば万々歳じゃない」 母が云いたいことは分かった。ハルは石像の如くその場に立ち尽くしていた。 何なんだ、この人。 もうハルには理解ができなかった。理解したいとも思えなかった。 「ね、一回」 母が云い終える前に、ハルは無言で通話を切った。 心臓が早鐘を打っていた。 間をおかずに母から再度電話がかかってきた。何かの手違いで通話が切れたとでも思っているのだろう。必要以上の力を込めてサイドボタンを押し続け電源を切った。 それからスーズを見た。間もなく彼はハルの視線に気づき、すぐに何かを感じ取ったようだった。 「どうかしましたか?」 途端にハルはスーズに抱きつきたくなった。 うっかり零れ出そうになった弱音を寸でのところで舌の先から拾い上げた。 何を云おうとしているのだ、自分は。 近くに生えていた白樫の樹の根元に幾らか葉が落ちていた。もう秋の背中は見えない。今日が本格的な冬の始まりの日だった。これからますます寒くなっていく。どんどん人恋しい季節になっていく。 「何でもない。執拗いセールスだよ」 スーズは肩をすくめた。 「きっぱり断るのが、相手のためです」 本当に、それができれば一番いい、とハルも思った。

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