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第61話
スーズは壇上で微塵も緊張した様子を見せなかった。
ただ会場にいた一般の学生のほとんどの目的は、午後一番に同じ会場で行われるバンド演奏のための席確保で、純粋にスピーチを聞きに来ていたのは留学サポートセンターの職員、大学の教授、次回の留学プログラムに参加しようと思っていそうな学生が何人かと、この時間に屋台の当番をしていないスーズの友達数人などごく僅かだった。
良いスピーチだった。ハルが見たところ、スーズの発音は完璧だった。ハルの眼には、この時のスーズが今までで一番良い男に見えた。実を云うと時々、スーズの表情に見入ってしまったハルには所々聞き取れていない部分もあった。だが後半、彼が云ったある言葉だけはすんなりとハルの耳に入ってきた。
『国が違っても、違わなくても、人と人が分かり合うことは難しい。私はまだそのことを知ったばかりだ』
スピーチが終わった後、ハルは舞台袖に去るスーズがちらっと壇上から自分のいる方を確認しているのが見えた。
舞台端の扉を開けて出て来たスーズはこれまでハルが見たどんな顔よりも晴れ晴れとしていた。今日は手放しで彼のことを褒めてやろうとハルは思った。
「すごく良かったよ。お疲れさん」
「声はちゃんと聞こえてましたよね」
「うん。騒いでる奴はいなかったから全部ちゃんと聞こえた。他にもお前の友達とか、ちゃんと聞いてる奴はいっぱいいたから」
「あなたが聞きに来てくれたからそれで充分です」
スーズは一片の迷いもなくそう云った。
何でそんなことを云うんだ。
その言葉には意味があるのか。そんな言葉を聞いた後で一体何を思えばいいんだ。
これから屋台へ戻って仲間を手伝わなければならないのかとハルがスーズに訊ねると、自分は当番に組み込まれていないしそういうつもりもないのだが、律儀に挨拶に行ってしまうとそういう流れになりかねないのでもうこのまま大学を出てしまおうと悪戯っぽく云った。
ハルはスーズが自分といることを優先してくれたのが嬉しかった。今となっては母の電話で煩わされた気持ちを完全に持ち直すことができていた。
大学の敷地を出てから何となく二人は顔を見合わせた。ハルは気恥ずかしさを隠すために微苦笑した。
「それで?この後どうする?」
「ハルさんに合わせます。夜は呑みに行くでしょう。それまで間がもつことなら何でも」
咄嗟にハルが考えたのはセックスのことだった。自分の名前を呼んだその声が体に沁み通っていくのを感じながら、少しの間思案に暮れたふりをして、この歳下の男に抱かれてみたいという欲望を抑えた。
「映画は?すぐ近くに映画館があるよな」
ハルはここ最近あまり映画館には行かない。映画そのものは好きなのだが、大抵は観たい作品がDVDになるのを待って自宅で観る。その方が安いし、トイレに行きたければ一時停止をすれば済む。周囲の客の咳払いや携帯の着信音に煩わされることもない。第一、社会人は忙しい。
近くのカフェで軽食を摂ってから足を運んだ映画館は、休日にも関わらず混み合っていなかったため観やすい席をとることができた。だが、たまたま近くにいたカップルがパンフレットを開きながら映画の内容について話しているのを見てスーズは顔をしかめた。
「パンフレットなんて映画を観終わってから本当に感動した人が買うものですよ。何でこれから観るっていうのに買うのかな」
どうやらスーズはネタバレが嫌いらしい。ハルはその点を全く気にしないタイプだ。自分達は映画の観方まで正反対だった。それが何だかおかしかった。
予告が終わり、場内が本格的な暗闇に包まれるとハルはさりげなくスーズの横顔と、自分のすぐ脇にある彼の腕に視線を凝らした。頭の中でその手が自分の頬に触れるのを想像した。指先が体を淡く這うのも。体が熱を持つような妄想をしているうちに、映画の序盤が終わってしまった。
映画は話題性は充分だったが、あまり工夫のないストーリー展開だった。そんな話をしながらしっかりハルは売店に足を運び、パンフレットを買っておいた。記念になると思ったからだ。
それから今日観た映画の原作を確認しようと二人で本屋へ向かった。
ハルは夕方の早い時間から開いていて酒の種類が多く、食べ物も安く提供してくれるバーを一軒だけ知っていた。カウンター席もあるが二、三人用の小さな個室もあるので落ち着いて話ができると思い、そこへスーズを連れて行った。
話題を作るのが苦手なためか、スーズは映画の話が尽きると今度は学校祭で顔を合わせた友人達のことをあれこれ話し続けた。その中で、スーズに語学教室を紹介してくれた例の男子学生はあれでも法学部の学生で、つい先日、大学在学中に司法試験の予備試験に合格した滅多にお目にかからない優秀な学生なのだということをわざわざ教えてくれた。
ハルは表面上は笑顔を装っていたが、いつまでここにいない友達の話をするつもりなんだ、と内心思っていた。
「お前の話も聞かせてよ」
これ以上、待っていられなくなってハルは訊ねた。何より、時間がもったいなかった。
「私の話?何のです?」
「恋愛の話。お前だってもう二十一なんだから、誰かと付き合ったことぐらいあるだろ?」
「まだこの歳じゃ人様に語れるような恋愛経験なんてないですよ。そんなに経験豊富でもないですし」
「だめだ、逃げようったって今日はそうはいかないからな。一緒に酒を呑むのは今夜が最初で最後になるかも知れないんだ。友達なんだから腹を割って話そう。俺のことばかりお前に知られてる気がして落ち着かないんだよ。その代わり、ここにあるメニューなら何でも好きなだけ頼んでいいぞ」
スーズは参ったなあという様子でくすくす笑っていた。
「分かりました。何なりとどうぞ」
「最初に誰かと付き合ったのは?」
「高校一年生、十六歳の時です。同じ学校の同級生でした」
「女?」
「ええ、でも三か月もしないで別れたんです。その次も女の子でした。彼女とも交際は長続きしませんでした。別の男子生徒と仲良くなったとかで進級と同時に別れを告げられて。その後また別の女の子に告白されて付き合いました。でも、もうその頃には異性との恋愛とか交際というものが私には向いていないんじゃないかと思い始めていました。女の子達は三人とも優しくていい子でしたよ。だからまめに連絡を取って、休日にはデートをしたり、試験勉強を一緒にしたりしていました。なるべく優しくして喜ばせてあげたかった。私も私なりに付き合いを楽しんでいるつもりでいたんです」
「いい彼氏じゃん」
「けど、一番長続きしたその三人目の子に云われました。あなたはあまりに完璧すぎる、と。誉め言葉じゃないですよ。ふられた時の会話です。完璧すぎて、まるで演じてるみたいだと云われました。『八つ当たりをしても喧嘩にならない。我武者羅に求められたこともない。本音がない気がする。だからあなたは何も悪くないのにひたすら寂しくなる。でもあなたは私ほど寂しいと思ってないのが分かる。あなたといると自分がどんどん嫌な人間になっていくようで耐えられない』。最後にそう云われました」
きっと聡明で心根の優しい子だったのだろう。国は違えど、自我が大きい十七歳の高校生にそういう自己観察眼はなかなか持てない。
「・・・じゃあ、女はそれっきり?」
「はい」
「それからは?」
「あなたは最初から気づいていたと思いますけど」
スーズは手許にあったおしぼりを脇に退け、それからライムサワーを一口呑んだ。
「十八の時、心を動かされるのに私の中で性別は関係ないんだとやっと気づきました」
「・・・あのピンバッジを手作りしてくれた親友?」
はっきりと訊かずともスーズはそこで頷いた。
「はい、彼とは高校入学時からの付き合いでした。私も彼もそれなりに女の子達と付き合っては来たものの、結局本音も弱音も吐ける相手はお互いだけだったんです」
それまでとは異なる真剣さがスーズの眼に仄見えた。間違いなく、今まで付き合った中で最も本気になった相手は誰かと問われたら、彼はその親友を選ぶだろう。
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