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第62話

「女の子達と表面的な付き合いしかして来なかったつもりはありませんでした。でも彼女達には話せないけど、親友には話せる。そういう話題はかなり多かったです」 「たとえば?」 「主に家族の話です。私が自分の親の話をできたのは彼だけだったんです」 スーズの親の話が出てきたのは初めてだ。ハルは首を傾げた。 「お前の親、何かあったのか?母親は元々ここの生まれだったよな」 スーズは伏目がちにカウンターの上に置いた自分の手を見つめていた。 「はい。母は昔、高校の数学の教師をしていたそうです」 「へえ、お前の親なら何か分かる気がする。絶対頭いいんだろうな。お前、母親似だろ?」 「どうでしょう」 スーズは俯いたまま困ったように笑った。 「私もあなたと同じで母親には悩まされていたんです」 「え?」 話すのを躊躇うような間があり、その間にまた彼の眼の色が変化した。 「母は元々神経が細い人で、外国暮らしには向いていなかった。だから結婚後、両親は母が生まれ育ったこの国で生活していくつもりだったんです。けれど我が家に限らず、私の国はちょっと家族同士の繋がりが強い風潮があって。何だかんだで父は自分の両親や親族からの圧力に勝てず、この国での仕事に目途がついたら帰国したいと云い出したんです。母が自分の実家と疎遠にしていることを挙げて、自分の国なら子育てを助けてくれる家族がいるから一緒に帰ろうと。でも蓋を開けてみたら、肝心の父はほとんど仕事で家に寄りつかず、性格的にも子供の面倒なんて見れない人だった。私には二つ離れた弟と四つ離れた妹がいるんですが、三人ともほぼ母親に育てられたようなものでした。そして母は私にだけ厳しかった」 ハルは頃合いを見て電子煙草を吸ってもいいかと訊ねるつもりだったが、そんなタイミングはなくなってしまった。まさかこんな話になるとは思わなかった。 「移住してからの母はよそ者扱いをされ続けた上に、文化の違いや自分の母国語で喋る機会を失ったことで、精神的に参ってしまうほど鬱憤が溜まっていたんです。だから母の苦しみを理解して、彼女の話し相手になることが私の人生最初の役目でした。母は私に自分の母国語を叩き込むことで、自分が求めていた家族像を実現しようとしたんです」 「何でお前だけなの?下のきょうだいは?」 「弟は幼い頃、体が弱くてとても勉強どころじゃなかったですし、妹は幼い頃から変わっていて何をしでかすか分からない子供だったんです。発達検査をしてみたところ妹の発達指数は境界域を示していました。その後も数回検査をしましたが、いずれも結果は同じだった。父は頼りにならないので母が弟を病院に送ったり、妹を発達支援センターに通わせたりしていて。今では弟も妹も普通に日常生活を送れていますが、やはりそれぞれ小さな問題は抱えています」 そこでスーズは少し深く息を吸った。 「だから当時、母が求める役割期待に応えられるのは私だけだったんです。母が取り寄せる発音のテープやテキストを前に、五歳の頃には既に毎日最低二時間は机に向かっていました。幼稚園や小学校以外で友達と遊んだことなんてないですし、子供が見るテレビ番組もほとんど観たことがありません。テキストから眼を離そうとすると母に鉛筆で手を刺されて、頭を押さえつけられるんです。そのままずっと終えるまで放してくれない。細かい人なので会話の中でも、助詞を間違えるとどうして間違えるんだ、って都度責められました。それでいて暮らしている国の言葉も憶えなければいけないので、子供の頃の私の頭の中は常に混乱していました。でも二か国語ぐらいスムーズに覚えられないなんて、頭が悪いか努力が足りないんだと母が怒鳴るので怖くてやるしかなかった。十歳の時に両親は離婚しました。その頃には母が言葉だけじゃなく服装とか、趣味とか、友人関係にまで口を出すようになっていたんですが、それがおかしいなんて気づきもしなかったんです」 話しているスーズは、今日英語で立派にスピーチをやり遂げた優秀な学生には見えなかった。 聡明な眼の光を放つ、黒い髪の細い少年。くつろぐことも甘えることも安心して眠ることも知らない、かつての自分と同じ寂しい子供がそこにいた。 すごくハルは不思議な感覚だった。スーズが云っていた言葉を理解した。確かに自分達は似ていた。 ハルも近所の友達とは一度も遊んだことがない。両親の離婚、母親からの抑圧、きょうだいとの扱いの差、同じ語学教室に通い、同じ男と関わった。自分達は似たものを持っていた。見た目も性格も全く違う。そしてもう何日かすれば眼の前からいなくなってしまう相手だったが、これほど通じ合えるものがある相手はいないと思った。ハルの中の、他人から理解されづらい孤独な部分を共有できるのは、知らない国で育ったこの男だった。 スーズが変わったのは、高校に入学して例の親友に出会ってからだった。彼と過ごした三年間は彼女にふられようが、家で何を云われようが、心の片隅にはいつも安らぎがあった。 よくある出会いだった。入学初日にたまたまロッカーが隣り合ったことがきっかけで、一緒に入学式が行われる体育館へ足を運び、また一緒に教室へ戻って来て海外文学や音楽の話で盛り上がり、惹かれ合うように急速に仲良くなった。出会って一週間後には彼の家に泊まりに行って、彼の家族と一緒に夕食を囲んでいた。 親友の家は小さなスナックを営んでおり、決して裕福な家庭ではなかった。夫婦は歳が十四も離れているのに、子供は四人もいた。だが貧しいことがイコール不幸だとか品格の低さには通じないとスーズは親友の家を見て学んだのだった。彼等はいつでもスーズを歓迎してくれた。母親はとても明るく客から人気のあるママで、父親は家庭菜園で育てた野菜を料理して店に出すのが好きな優しい人だった。親友の弟や妹達はまだ幼く、最初はスーズを警戒していたのだが、ひと月もすると帰り際に走って玄関の外まで見送りに来てくれたり、時には寂しがってぐずり出してしまうほど懐いてくれた。 『女の子とデートして遅くなる時はうちに遊びに来てたってお母さんには云えばいいよ』 『また試験前には泊まりにおいで。うちの子は放っとくと全然勉強しないからさ』 『あ、夏野菜、沢山とれたから持って行きな』 だがスーズの母は、水商売をしている家の子供と遊ばせるために高校へ行かせているわけじゃない、と云って親友の家からもらって来たきゅうりやトマトが入ったビニール袋を蹴飛ばした。 スーズは市内でトップの公立高校に通っていた。更に学校内では成績による明確なクラス分けがあり、スーズは入試の成績上位十五パーセントの特進クラスに入っていた。もちろん親友もそのクラスに登録されていた。彼が蔑まれる理由なんてどこにもないはずだ。 自分に対する非難は我慢できても、親友や親友の家族への非難は許せなかった。 これまでを思い返してみても、スーズが自分が見つけてきたものを母が認めてくれたことはなかった。どんなに結果を残しても褒めてはくれなかった。 母は息子の幸せは願っていない。自分の気に入るようにしたいだけなのだ。 そう思ったスーズは、高校二年生の時に近くに住んでいた父親のマンションに移った。当然厄介者扱いを受けたが、大学に合格して寮に入るまでの一年半だと云って無理矢理居坐った。元々、長男を大学に進学させるための学費の負担は父親の役目ということで離婚の際話がついていて、それをスーズは知っていたのだ。 母の執拗さに追い詰められていたスーズには、父の無関心の方がまだましだった。三年生になり、やりたい勉強ができる学科を探した結果、いくつかランクを落とした大学をスーズが志望しても父は何も云わなかった。 父を直接頼ったのは家を出たあの時が初めてだ。一度くらいは褒められてみたいと思ったこともあったが、どんなにいい成績をとっても、志望校に合格しても、最後まで父親の気を引くことはできなかった。 「学費のことがあるので父とは一年ごとに連絡はとっていますが」 スーズのグラスはいつの間にか空になっていた。ハルは話に気を取られすぎていたことに気づき、テーブル横にあるタッチパネルのメニュー表から同じライムサワーと、適当に自分用のジントニックを注文した。その動作の最中、なるべく何でもない風に云った。 「うちも父親は昔から留守がちだったよ。機能不全家族ってやつ?」 スーズは再び薄く笑ってハルを見た。同志に向けた、労りに近い眼差しだった。 「こういうことを全部知っていたのは親友だけです。あとはあなただけ」 こういう時は黙り込んだらいけない。ハルは髪をかき上げて、徐に煙草を取り出した。スーズに意向を訊くのを忘れた上に、電子煙草ではなくいつも吸っている普通の紙巻き煙草に火を点けてしまった。 「・・・ごめん、この一本だけ」 「構いませんよ」 ハルは煙草を吸いつつも、何となく落ち着かない気持ちでテーブルの上の食器を寄せたり、おしぼりで指先を拭いたりしていた。飲み物はなかなか運ばれて来なかった。 「・・・親友とは今でも連絡取り合ってるのか?」 「一度だけ寝たんです」  その答えにハルは声を失った。 「私が大学の寮に引っ越す二日前の朝、唐突に彼が訪ねて来て。玄関の扉を開けた瞬間、どうしてか、そうなる予感がしたんです」 スーズは続けてこうも云った。 自分達はずっと純粋な友達だった。それを疑ったことはない。自分達のセクシュアリティについて、疑問を持ったり話し合ったりしたこともない。それなのに何故かその日は、自分がどういう形で親友に求められているかがすぐに分かった。そして自分も同じように相手を求めていた、と。 それがどんなに瑞々しくまた初々しい透明感のあるセックスだったか、ハルには想像できた。言葉なんか要らない。二つの川のせせらぎが一つの流れになるように、ごく自然に二人は重なり合ったに違いない。新緑の上の朝露、真夏の太陽に照らされた海、青空の下の雪原、この世にある輝くものをきっといくつ並べても、きっとその時の二人には敵わなかったはずだ。切願と渇仰を何度も繰り返した末の満願。 自分もそういう体験をしたかった。

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