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第63話

「進学してからも一年ぐらいは連絡を取り合っていたんです。今までと同じ、いい友達として。彼は高校卒業後は働いていましたし、私はもう地元に帰る家がないので、会うことはありませんでしたが電話や手紙のやりとりはよくしていました。二人とも、あの一度きりの逢瀬については一度も触れないまま」 「そうか。・・・そいつ、就職したんだ」 「はい、地元にある小さな印刷会社に入社しました。彼は非常に成績優秀で、どの大学の奨励奨学金も受けられるレベルだったんです。でも奨学金の給付だけで生活はしていけませんから。彼より成績が低い同級生の中にも、奨学金を欲しがってる生徒はいっぱいいた。親友は進路を私以外の友人には明かしていませんでした。持っているものを活かす気がない人間が自分より上に立っていたら、やっかみたくなるのが人ですからね」 一瞬ハルの頭の中に、サワの顔が過った。今でも彼を憎めなかった。ユニの話は事実だと思う。それでも、ハルにとっては見えない裏の顔よりも、入社研修の時、話しかけてきてくれた彼の人懐こい笑顔の方が本物に思えていた。 「私が合格通知を持って報告に行った時、彼は誰よりも喜んでくれました。隠してましたけど、少し泣いてた」 「いい奴だな」 「私のために泣いてくれたのは彼が初めてでした。合格の話を聞いた彼の両親まで、まるで自分の子供のことみたいに喜んでくれて、お祝いだと云って食事を用意してくれて。そこで人生で初めてお酒を呑みました。全く、お父さんもお母さんも私のグラスにビールやスコッチを勝手に注ぐんですから。私の国では十八が成人年齢なんですが、まだその時は未成年だったんですよ。夫婦揃って酒豪だから容赦がない。おかげで私は酔って吐いてそのまま眠り込んでしまって。朝になって気がついたら、皆さん雑魚寝状態でした。ちゃんと寝台で寝てたのは下の子供達だけです」 スーズが思い出し笑いを堪えた顔でそんな話をしていると、やっと店員が飲み物を持って来た。ライムサワーがライチサワーに間違えられて届いたが、スーズはそれでいいと云って口をつけた。 「・・・それから何日かして、例のことがあって、それから私が地元を離れても、親友との関係は一つも変わらなかった」 スーズが手許で紙ナプキンを折り畳むのを見ながらハルは煙草を灰皿に押しつけた。 「今年の一月に、彼は職場の女性と結婚しました」 「え?」 「去年の終わりに、結婚式の招待状が届いたんです。私は出席しませんでしたが」 「招待状、だけ?・・・他に何か、手紙とか」 スーズは首を振った。 「参列した友人から聞いたんですが、小さいけれどとてもいい結婚式だったということでした。携帯電話に写真も送ってもらったんです。奥さんは小柄で可愛い雰囲気の女性で、親友の両親ともとても仲が良さそうだったと。・・・二人の間に子供ができたことも、その場で報告されたそうです」 ハルはとてつもない無力感に襲われた。スーズに対し何と云ってやればいいのか全く思いつかなかった。 「・・・めでたいこと、って云うしかないよな」 「もちろんです。・・・彼はあの日私を好きだと云ってくれたけれど、付き合おうとは云ってくれなかった。だから私も云えませんでした。云ってみるべきだったのかも知れないけれど、あの時はとても充たされていたから、そんなことは小さなことのように思えたんです。でも彼は既にあの時、後悔していたのかも知れませんね」 ハルはスーズが惨めな思いに駆られていないかがとても気になっていた。だがそうだとしても、彼がそんな表情を露わにするほど子供ではないことも分かっていた。 「実は彼のお母さんは私達が高校を卒業してすぐ、一度倒れているんです。若い頃に患った神経の病気が再発して・・・物が二重に見えたり、体がうまく動かなくなったりといった症状に悩まされるようになっていて、以前のようには生活できなくなっていた。親友の話では呂律が回らないし、食事をするのも一苦労だということでした。・・・きっと結婚して、お母さんを安心させてあげたかったんじゃないか、とも思うんです」 「そうだな、きっとそうだよ」 だがその相槌がスーズに聞こえていたかどうかは定かではない。 「頭では分かっているんです。これで良かったと。誰からも後ろ指を差されることのない、ごく普通の幸せを彼は手に入れたんです。もし彼が私とずっと一緒にいることを望んでくれたとしても、私は多分耐えられなかった。あんな関係を繰り返していたら、息子を愛していて、私にも親切にしてくれた彼の家族に対して、裏切っているような気持ちになったと思います」 「その人達なら、きっとどんな息子でも愛したはずだよ。そいつが選んだお前のことも」 思わずそう云っていた。 愛? 自分で発した言葉にハルは驚いていた。愛がどういうものかも知らないくせに。でも、無責任に発したつもりはない。スーズのために必要な言葉だと思った。 この言葉はちゃんとスーズに聞こえていた。彼はごく小さく頷いた。 「そうかも知れませんね。でも、優しい人達を悩ませるのは嫌です」 グラスを眺めながらそう答えたスーズをハルは注視していた。長めの髪に隠れた耳と銀色のピアスに眼がいく。スーズが下を向くと黒い髪が前に落ちてきて、彼はその毛束を耳の後ろへ戻した。黒髪の間に銀輪のピアスが光っている。この男の色気は耳のあたりにあると思う。 「ハルさん、どうして彼は一言云ってくれなかったんでしょうか?」 唐突に名前を呼ばれてハルは硬直した。顔を上げたスーズはほんの少し笑っていた。こんなことを関係のない人間に訊ねている自分を自嘲しているような笑みだった。 「一言云って欲しかった。私と寝たことを後悔したというのなら、その後一年も真摯に友達付き合いなんて続けて欲しくなかった。彼が幸せになるなら別に私が相手でなくてもいい。ただ、心の準備をさせて欲しかった」 「・・・分かるよ。・・・そういう思いをしたから、アールの結婚のことも、俺に教えてくれたんだろ。あいつに向かって怒ってくれた」 「残念ながら、私はそんなに高尚な人間じゃありません。アールに対して怒鳴ったのは、別に彼に捨てられるあなたを気持ちを思いやったからじゃない。私は心のどこかで勝手に結婚を決めた親友を憎んでいたんです。あの怒りのエネルギーは彼に向けたものだった。アールにしたら、私があんな風に怒鳴る理由が分からなかったでしょうね」 それからまた少し、スーズの表情が和らいだ。 「この国へ来たのは、何でもいいから色々なことを忘れて遠くへ行きたかったからです。たった一度のことを忘れるのに、こんなに時間がかかるなんて思いもしなかった。きっと彼の方では、もうとっくに忘れているのに」 「そんなの分からない。憶えてるかも。今この時だってお前を思い出してるかも」 「ありがとう」 その痛々しい言葉にハルはもう何も云えなかった。 「あなたに預けてあるあの飾りは、結婚前、最後に彼が送ってきたものです。仕事の合間をぬって知り合いの工房で少しずつ制作していたと手紙に書いてありました。彼には彫金の心得がありましたから。学生の時からそういう所に出入りしていて、もし進学できるなら、そういうことを学びたいと云っていた」 「そうだったのか」 ハルは高いところから突き落とされたような感覚に陥った。知らなかったとはいえ、自分は何という大事な物を彼から取り上げてしまったのか。

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